2012年03月27日

            
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2012年03月20日

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B級グルメとスイーツの催しがグランメッセ熊本で開催されていました。味は残念ながらB級にも届いていなかったのですが、近くの西原村まで足をのばしました。小国に住むようになって、あちこちと出かけています。西原村は熊本市に近いのですが、約70キロも離れたこの小国と同じ阿蘇郡の、まだ村なのです。最近になり、村という響きに郷愁を感じ出かけています。村とはいえ、村に誇りを持って生活している事が村内を歩いただけで伝わってきます。衰退著しい村が多い中で、西原村は観光客をたくさん呼び込むような、村を訪れたくなるような仕掛けを、村あげて取り組んでいるようです。

 俵山の近くの物産所「萌の里」を中心に様々なイベントや陶芸・雑貨店・料理屋・音楽関係等の芸術家村が形成されています。特に、世間と断絶したような風変わりな、しかしながら音に対する追究は際だっているオーナのオーディオ道場は異空間そのものです。人を引きつける魅力を発信している、西原村のあり方は、この小国でもおおいに参考になりました。

 今日はその焼き物窯の一つ、三六窯でコーヒーカップを買い、その帰りに外輪山を上ったところで、道沿いに車がたくさん止まっているのを見かけ、おりて近づくと煙が立ちこめていました。ほうきのような道具を持った人たちは野焼きの広がりを防ぐ地域の人たちだったのです。阿蘇の冬枯れの原野は、火を付けられ瞬く間に燃え広がり枯れ草を焼き尽くしていたのです。阿蘇では野焼きは冬に終わりを告げる儀式であり、春の息吹を呼び込む炎の祭典だったのです。

 宿に戻るとウグイスが鳴いていました。宿はまだまだ冬枯れの景色の中ですが、気温10度の肌寒い中やっとボイラーを炊かずに源泉の温度のままの露天に入りました。湯から出たらまだ寒いのですが、服を着るとぽかぽかと温かくなるのが、温泉なのです。小川の向こうは枯れ草のままですが、新緑の春は着実に近づいてきています。

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     古天神 井崎
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2012年03月06日

 2月の末頃小国の街に買い物に出た折り、道の駅ユーステーションの近くの広場でテントを畳む青年を見かけました。声をかけていいものか迷いながらも、気になってしまい話しかけました。なんと、大阪から自転車でテントを張って野宿しながら旅をしている大学生だったのです。大阪から日本海に向かい南下してきて鹿児島まで走るそうでした。兵庫を走っているときに雪に遭い、さすがに夜も寒くて寝られなかったそうです。家の中で寝ていてもまだ寒いこの時期に自転車で旅を思いつく青年に若さと夢に向かう壮大さに感激しました。青年は未来に向かって自転車をこぎ続けていたのでした。こぎ続ける大地は青年にとっては未来にと続くのですが、果たしてこの先の未来が安泰なのかどうかは3・11を契機に誰もが考え込んだのではないでしょうか。不安を覚えずにこの1年を過ごした人はおられないはずです。

 日本という国土があれほどまでにもろく不安定だったとは専門の学者以外、誰も認識していなかったはずです。地球の地殻変動は太古の昔から連綿と続いておりこれからも続くことを証明したに過ぎないのです。その不安定な地殻の上で生活をしてきたのであり、たぶん暫くは大丈夫だろうという淡い期待の上で街を家庭を家族を築いて来たのではないでしょうか。まさに砂上の上で生活を築かざるを得ないのが、日本のどこに住んでいても受け入れざるを得ない現状のようです。確固とした足場を築けないこの日本の国土で、私たちは何を拠り所としてこの先を歩んでいけばいいのでしょうか。どこかに逃げ出すわけにはいかない私たちは、これからも不安定な土台を土台として生きていくしかないようです。地殻の変動を止められないのであれば、私たちは変動による災害を最小限にとどめる備えだけはしていかなければならないはずですが、いつ来るかも知れない災害に絶えず備えるだけの緊張感を維持し続けることは出来ないのも現実なのです。

 この不安に応えるのが政治の力であり、政治家の務めのはずです。まずは、政治は東北の復興を最優先に取り組んで欲しいのです。東北に明かりが見えてこないことには日本全体が元気にはなれないはずです。「一つ」になって力を合わせようとしているのは国民なのです。家族や街や社会が地震と津波と原発でバラバラに引き裂かれたから、「絆」の本当の意味を分かったのです。絆を大事にしているのは国民なのです。「絆」を軽々しく政治の道具に使って欲しくないのです。この災害で分かってきたのは、一つになって力を合わせたのは、自衛隊や消防や警察の決死の覚悟の貢献であり、その後に続く多くのボランティアの皆さんの働きであり、芸能人の活動や料理人の炊き出し、多額の寄付をした企業であったり、海外の住民やアーテストをはじめ、ほとんどの国民が募金したり支援物資を送ったことなのです。

 この間国民より先に身を挺して働かねばならない政治家は何をしていたのですか。大政翼賛会の亡霊に怯えて、もしくはそれを口実に一つになるどころか、互いに協力も出来ないような器の小さい政治家を私たち国民は育ててきたのではないでしょうか。天下国家のことしか考えていないとうそぶいている政治家がいましたが、この大震災から一刻も早く復興させることが当面の天下国家のはずであり、身を犠牲にして働いる姿を見ていたら少しは説得力はあるのでしょうが、政局のことしか考えず1年生議員と酒を飲み交わしている政治家に、天下国家を語る資格もないはずです。国民は一人一人家族や社会や国のために働いているのです。だから政治家は国民のために働いて欲しいのです。政局のためにだけエネルギーを使って欲しくないのです。

 日本の国債の格付けが下がれば ギリシャのように国が破綻するとマスコミは国民に脅しをかけます。格付けが下がれば真っ先に痛手を受けるのはいまだ復興していない東北なのです。地震や津波や原発で被害を被っているのに、経済が破綻すればどうなるか位、誰にも分かることなのです。破綻を防ぐ方策は国民個人の力でははどうしようもないのです。それを出来るのは政治家なのです。国民は先の不安のために出費を抑えて地味な生活を甘んじているのです。享楽に溺れている国民なら破綻も致し方ありませんが、そうでない国民のために、政治家は本当の天下国家に目覚めて欲しいものです。政治家に対する信頼が薄れ続けていると言い続けてきましたが、国民は現在の政党に見切りをつけてきたのかも知れません。大阪での一首長の動きは大阪にとどまらず、国全体に影響を及ぼしかねない勢いで広まりつつあります。訴えていることには、現在の政治に欠けている一理あることも多いので急速に支持されていくでしょうが、本当の国民のためにはどうなのかと、警戒もしていかねばならない危うさを持った人物でもあります。

 この1年間私は苦悶の中にいました。頭の中で自問自答しながら生活をしていた気がします。もちろん、宿を始めたばかりで宿のお客様をどうもてなすかに明け暮れていたのも事実であります。忙しかった秋が過ぎ凍てつくような冬も何とか乗り切り、3月11日が近づくにつれて何もしていない自分に情けなさを感じつつ日々を送っていました。いても立ってもいられず、東北に向かうつもりでしたが、家庭の事情で遠くまで実家を空けられない事態となり、何度も炊き出しに出た料理人やボランティアの活動を応援するしかない自分に恥じ入っていました。今NHKは震災特集を放映しています。あの津波の映像を改めて見ると、あまりの巨大さに映像を見ただけでも恐怖を覚えます。あそこに居た人々の為す術がなかったことが実感されました。3・11以降は人生観が変わったり、ものが書けなくなったと辺見庸をはじめ多くの人々がが発言したり書いたりしています。私が人生観を変わることと、被災地で犠牲者になった家族を持つ悲しみは全く次元が違うため、一緒にしないでくれ、言葉に出来ない、言葉を失うというのが本当でしょうが、あえて書くことで被災者の哀しみに寄り添うことを許していただきたいのです。

 5日現在の震災死者1万5854人 不明者3274人 死者の数の後ろにはその家族の哀しみがあります。不明者が未だ3千人を越えているのです。悲しみにも浸れない、やりきれなさと茫然自失で時間が止まったままの被災者も多いのです。親を亡くした、兄妹を亡くした子供達、子供を亡くした父親、母親。あの日を境に絶望の波に飲み込まれてしまったのです。悲しみを共有出来るなどと、不遜な思い上がりは持ちませんが、悲しみに寄り添う姿勢だけは持ち続けていくつもりです。不明者の家族の方は、顔も見られずに死を受け入れなければならない過酷な現実には途方に暮れておられるはずです。家族を失った悲しみは時間がたって和らぐことはあっても消えることはありませんし、絶望感のトラウマは心の奥底にとどまり続けます。私が大学生の時に高校に入学したばかりの弟を病気で亡くして、40年たっても未だに悲しみのトラウマを抱き続けているのです。そのために、息子を亡くした親の悲しみも、自分が親となってその当時の両親の嘆き悲しみを思うといたたまれません。ただ、弟は少しの時間看病する期間があったのですが、津波は一瞬にして命をさらっていったのです。絶望の深さと無念さは想像を絶するものがあったはずです。

 私は被災地に行けなかったのですが、別府の大学にいる長男は12月にボランティアで現地に行きがれき等の後片づけの手伝いをしてきたようです。とても大変な仕事で疲れたと言って帰ってきましたが、少しでも被災者のために働けたことに充実感を感じていたようでした。被災者は労働の手助け以外に精神面の話相手や、生活支援等の様々な活動のボランティアはまだ不足していると話し、九州からは遠いので支援に行く人が少ないと残念がっていました。太宰府にいる妹は地域で3月11日に東北支援バザーを企画しているようです。東北の物品等は購入する予定でおりますが、何らかの形で被災地に対する支援の手をさしのべることも考えております。

 揺らぐ大地に身を置いて生活をしていかねばならない私たちは、やはり人との絆の強さを支えにしか歩いていけない気がします。生きていく大地の土台が不安定であり、国を導く政治が不安定であり、経済も不安定な中で、確固とした足場の確保を他人任せにしては平穏な未来は期待できないようです。国民が進むべき理念も提示出来ないような政治ではありますが、国全体で百年後の明日を考える契機の3・11にしていかないと犠牲になった方々や被災者に報いる事は出来ないと思います。確かな未来が続くと、大地を信じて自転車を漕いでいた日本の未来を背負う青年の夢を壊さないためにも・・

           
        2012年3月6日
        風のテラス 古天神
               井崎  



 

 

 


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