2013年05月10日

春と石と

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春霞の中の阿蘇山
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新緑間近の久住連山
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新緑のクヌギ林
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新緑の草原で遊ぶ赤牛達
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宿のコナラの若葉

 宿にお泊まりになったお客様から時々、この宿はどの季節がいいですかと質問を受けます。質問をされるお客様にとって好きな季節はおありでしょうがこの宿にとってどの季節がいいのか返答に窮していました。温暖化や気候の変動があるため昔ほどには都会では四季の区別が付かなくなっているのかも知れませんが、それでもまだここ小国では四季の季節の顕著な移ろいが見られます。空調の利いた都会の室内で働く人にとっては、本当の冬の極寒の季節は遠い想像の世界の出来事なのかも知れません。この小国でさえ昭和の30年代は雪が約1メートルも積もり、気温もマイナス20度近くにも下がったこともあるそうです。最近は雪も降り方が少なくなりこの冬は2・3回数センチ降っただけで気温もマイナス7度位までしか下がりませんでした。温暖化の影響であることは小国でも歴然としています。

 大半の人にとって季節の変化など気づかなくても特に問題ではないし、もしかしたら今すぐには見える形で影響が出ない温暖化なども差し迫った問題ではないのかも知れません。今の日本の大多数の人にとっては経済の復活が目前の緊急の課題かも知れません。格差社会にさせられ利益の分配がアメリカ並みに偏ってくる社会では仕方のない事かも知れません。だから、古代の人々が和歌に詠ったり、清少納言が枕草子で描写した日本の自然の四季の風景などは過去の遺物で学校の教科書で習う退屈な古代文化でしかないのかも知れません。他人を平気で侮辱するフェイトデモを許すような、もしくは異なった意見を一斉に潰しにかかるような偏狭な民族主義の国にになりつつあるのは残念でなりません。経済的な劣等感が日本人の心のゆとりをなくし、愚かな政治の犠牲になった人たちの不満のはけ口として排外的なところに日本人の目をそらさせようとする目論見があるのであれば、国際社会の中で孤立した国になっていきます。ネットの匿名性の陰に隠れて他人を中傷したり侮辱発言を許すようでは礼節さを欠いた懐の浅い国に成り下がってしまいます。ある政治家は美しい日本のためにとうそぶいていました。美しかった日本の景観や日本人が持っていた品格や寛容の精神を壊しつつある背景にあるのが一部の拝外主義者に依存した政治を行おうとしている政治家なのです。自己の政治家としての信念を平気で捨て去りただ当選のためにだけ動き回るようなに政治家にこそ、本当の道徳や倫理観が必要なのです。

 この宿で1年を過ごしてみてどの季節もそれぞれに良さがあるのが分かりました。春の新緑、夏の涼風、秋の紅葉、冬の雪景色とどの季節も四季の良さがあるのです。だからお客様の質問に窮していたのですが、この春二度目の春をしみじみと眺めていると、次に質問をお受けしたら「春」がいいようですとお答えしようかと思うようになりました。春は新緑と決まり切った紋切り型に、ただ単に緑一色と思い描いていたのですが、じっくりと冬から春に推移する季節を眺めていると、新緑の中身が草や樹木によって微妙な色合いにの変化を見せているのが分かったのです。

 阿蘇に春を呼ぶ野焼きが終わって3月の中頃から下旬に掛けて一面の枯れ草の景色の中にぽつりぽつりとたくましい雑草の緑がまず出てきます。よく見ないとまだ緑は枯れ草の中に埋もれています、もちろんあちこちに蕗のとうが顔を出し始めたら春の始まりです。土筆が伸びだす頃にはスミレも咲き出します。このスミレの花が見られるのはこの時期だけなのです。枯れ草の中で小さく紫の花を咲かせるスミレは雑草が繁茂し出すとどこに行ったのか雑草におおわれてしまい見えなくなってしまいます。クヌギやコナラやブナやコブシに幼い緑の葉が芽生えてきます。秋には黄色になるイチョウも若葉の頃は緑色の幼い葉を付けます。露天の周りの群生したもみじも葉を付け出します。それぞれの樹木の葉の色もただ単に緑一色ではないのです。薄緑から深緑に萌葱色から浅緑にと対岸の山は春の色を様々に変化させながら初夏の季節へと移っていくのです。野焼きの済んだ阿蘇の黒く焼かれた草原の後には若草色から若葉色へと変わっていきます。冷たかった風も和らぎ心地よい風とともにウグイスやホトトギスの鳴き声が聞こえて来ます。宿やレストランの窓一杯に広がる新緑の景色と和らいだ風と小鳥の囀り小川のせせらぎに包まれる「春」は、この宿の最もいい季節とお答えしていいのかも知れません。

 宿の露天風呂を造って頂いたMさんから不思議な話を聞きました。露天の管理をして頂いているのですが、水漏れの修理の際にこんな事を話されました。石も乾くと水を吸うとのことです。石が水を吸うという事はにわかには信じられませんでした。露天の排水溝を締めて水を満水にしていると、露天を形成している岩石が水を吸っていくらか露天の水が減ると言われるのです。石達の乾きが溜まってからでないと、露天の満水の喫水線までお湯が溜まらないらしいのです。生き物は人間を初め生命の維持のために水は必須とします。しかしながら、石は生き物でしょうか。生き物ではないはずですが、京都の庭などに組まれた石達は存在を主張するどころか宇宙の空間さえ哲学的な空間さえ現出させているのです。「無能の人」では石を売る商売の人物が描かれていました。石を収集する人も居るほどに、石や岩石は魅力を放っているのです。女将が造る天然石のビーズもファンが多いのです。対岸の春の樹木達を堪能できるように配された露天の石達も独特の温泉の癒しの空間の形成になくてはならないものです。その石が水を吸うのです。生命を持つ物が生き物であるのは当然ですが、生命を持たずとも意図を持って配された岩石は生命を持った人間に、生命の力を与えていると見れば生きた存在と同じものと見ることが出来るのではないでしょうか。または、生きとし生けるものだけが生命体ではなく、この地球上で変化しないものはないはずで、変化している物はすべてが生き物ではないでしょうか。そうなると、そこでは渇いた石がわずかに水を吸うという現象も説明が出来るのです。

 植物にとっては生命の息吹が吹き出す春といわれます。新入生や新社会人にとっても春は人間としての成長の始まりの季節なのです。芽吹くことにより、歩き出すことにより始まる春があるように、その存在を人間の意図により働きかけることによってやっと生命の春を迎える生命を持たない存在の石もあるのです。阿蘇には人が働きかけることによって活き活きと生命を主張し出す素材が多くあるはずです。人の手を加えない自然のままの景観を大事にすることは当然のことですが、人の手を経ることにより生命が吹き込まれて動き出す物もあるのです。萌葱色の新緑の若葉により新しい感覚をよみがえらせる事が出来ました。春はそういう躍動していく四季の始まりの季節なのです。石にさえ生命の息吹を感じることが出来たのも、あらゆる生命のみずみずしさを感じ取る阿蘇の大自然の中に抱かれて生活を始めたおかげかも知れません。
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やっと春を迎えた宿
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春の露天風呂
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「空の音」から見る春の三日月
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25年5月10日
古天神 井崎












posted by 風のテラス 古天神 at 16:36 | Comment(0) | 風のテラス便り
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