2013年03月02日

ヒヨドリ

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今、宿は枯れ草色に覆われた冬枯れの景色の中にあります。決して美しい景色ではありません。春や秋の景色に比べれば、むしろどんよりした冬の山の単色の中に沈んでいます。ただ、そうであるからこそ、まだ見えない芽吹き春の想像力がかき立てられます。春となり新緑を迎える対岸の山は、窓一杯に緑の光景が広がります。押し寄せてくるようなきらめく緑に圧倒されそうになります。目の前にはないまだ見られない季節の景色は、想像力の力があれば味わえます。しかし、どんなに素晴らしい景色を眺めていても、長く見ていると飽きてくることがあります。私が心配したのは宿からの景色にいつかは飽きてくるのではなかろうかということです。眺望のいいところからの景色は眺めているその時は感激していても、何回ももしくは長く見ていると次第に見慣れた景色となってしまい最初に見た景色ほどの感激は湧いてきません。たまに訪れたりたまに見るから、新鮮さは持続しているはずです。もちろん季節が違えばいくらか見え方は違うでしょうが慣れてしまうと最初のような印象は薄れていきます。

 人は贅沢ですが倦むことからは逃れられないようです。景色にも音楽にも料理にも、飽きが来ます。流行の変遷は人がものに倦むから生じるのかも知れません。沢山のCDを持っています。聞き始めた頃は飽くことなく何度でも聞いた音楽がいつの頃からか次第に遠ざかってしまいます。たまに取り出して聞いても以前のような感興が起こらないのです。耳が慣れてしまい新鮮味に欠け心が躍らないのです。この宿に来て音楽から遠ざかる事が時々あります。音楽がなくては生きていけないほどの人間だったのですが、音楽を聴かなくても過ごせるのです。音楽に心が向かないゆとりのない時でなく、春から秋の小鳥の囀りの多いときに窓の外の音を聞きだしたらCDの音楽が要らない事もあるのです。CDの音楽は何度も聞くと倦みやすいのですが、小鳥の囀りは飽きが来ないのです。どんなにいい曲であっても、どんなに音楽理論に乗っ取ってアレンジを重ねて作られた曲であっても、絶えず微妙に変化している、そんなに鳴き声が良くもない冬のヒヨドリの囀りの音色にも及ばないようです。

 ご飯は飽きが来ない食べ物です。ご飯には味が付いていません。味が付いていないのに飽きが来ない、味が付いていないからこそ飽きが来ないのです。では、何故何十年と食べ続けて飽きが来ないのでしょう。それは副菜のおかずに変化を付けているからです。米のご飯だけを食べ続けると多分飽きが来るはずです。どんなに高額で珍味で味の複雑な料理でも同じものを食べ続けると飽きは早く来ます。飽きの来ない料理を作り続けることは難しいものです。味の付かないご飯は飽きが来ません。味の付いたおかずは飽きが来ます。ここのところにお客様に飽きさせない料理を提供する工夫の余地があるようです。家庭料理は飽きが来ないといいます。そんなに高価な素材を使ったり、調理に時間を掛けたりしていません。しかし、料理の最後は家庭料理に行き着くのです。だから、たまに食べる料理は凝った料理を食べて美味しいと喜び満足するのですが、落ち着く安らぐ料理は家庭料理なのです。

 しかし、旅行とは非日常であるからこそ楽しみもあり魅力もあるはずです。そこにはなるだけ日常を排除した空間を提供しなくてはなりません。たまに泊まりに行く旅館で家庭料理を出されたのでは、いつも料理を作っている主婦は喜びません。家庭料理がもっとも飽きられない落ち着く料理といっても、旅先では当然家庭の味でない料理が求められます。毎日家で生活を営みながら食べる家庭料理は飽きません。しかし、旅先ではいつもと異なった料理を食べたいのです。その異なった凝った料理は凝った味故に飽きもすぐに来るのです。旅行に出て人は元気をもらいたいのです。また、日々の仕事や生活を抑制しながら送るためには、日常とは異なった空間に身を置く必要があるのです。あくまでも、日常が主であり旅は非日常なのです。だから、早く飽きの来る凝った料理はたまには食べるだけで十分なのです。このことは日常と非日常を交互に繰り返す人生のようなものです。人生に飽きが来ないのもここにあるのです。

 宿からの景色に飽きが来ないのは、季節により光景の色彩が変化するためです。CDの音楽よりもヒヨドリの囀りに飽きが来ないのは、絶えず一定ではない動きのある鳴き方をしているためです。飽きの来ない家庭料理は副菜が毎日変化しているためです。毎日の生活に飽きが来ないためには非日常の空間にたまに身を置かなければなりません。他人から飽きられない人になるためには、時代の変化の音を聞く体内の耳をいつまでも研ぎ澄ませておかなければなりません。若い人でも年を重ねた人でも現状に満足している人には魅力を感じません。何も時代の流行を追うのではありません。流行の先にあるものは忘却でもあるのですから。飽きられないとは絶えず新鮮な変化の風を吹かせることと、想像力を膨らませるどのような工夫をしているかということです。人間の持つどうしようもない性の一つでもある倦むことの克服はそこにあるのです。

 空を裂くヒヨドリの鳴き声は、ついつい現状に安住しそうになる我が身に警鐘を鳴らす鳴き声でもあるのです。
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25年3月2日

古天神 井崎 
posted by 風のテラス 古天神 at 15:53 | Comment(0) | 風のテラス便り
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