2012年09月10日

秋の気配

 宿の周りもいつの間にか夏の残像となっています。太陽の日射しも勢いがなくなり、鳴いていたヒグラシに代わり草むらからは虫たちの鳴き声が聞こえ出しました。夏でも朝夕は涼しい風が吹くこの高原では、もう既に布団を出しています。この夏は雨に始まりました。梅雨の終わりに大雨となり阿蘇の各地に甚大な被害をもたらしました。先日久しぶりに一宮までなじみのパン屋さんに顔を出しましたが、車を駄目にし床上まで浸水したが営業を2週間休んだ後再開したと話されました。豪雨の不安や片づけ等に大変な思いをされたはずですが、前向きに仕事をされている元気な姿に接して、困難に立ち向かう人の強さを感じました。帰りの道から見える外輪山の山肌も、所々緑が削られ痛々しくむき出しの斜面が見えていました。道の途中にあった骨董屋さんが跡形もなく消えていました。山崩れの土砂と一緒に流されたそうです。見慣れていたものが無くなっていた道の景色に、7月12日の夜のすさまじかった雨の音がよみがえってきました。

 この夏は慌ただしく過ぎました。大雨の影響もありお客様は少なかったのですが、夏が瞬く間に過ぎてしまいました。腰を落ち着けて宿にとどまることが出来ず、佐賀の地と行ったり来たりの生活をしていました。私の年代になると、親の介護も生活の一部となります。家庭でも自分が年を取るのと同時に親も老境に入り、世代の交代が徐々に始まっていました。仕事に没頭し、自分のことに没頭し、子育てに没頭していた時期に、親も年を重ねていたのです。その時、親の思い出は多くは語られないのです。86年間の父親の人生をどんな言葉で表すか、どんな言葉で送ればいいのか迷いました。ほんの数行の言葉では語り尽くせない人生があったのです。その上に私たちの生活が在ったのです。しかし、存命中はなかなか複雑な思いが邪魔をして、親としての父親とその人生に真正面から向き合えなかったのも事実です。

 父の遺影を見据えながら、確かな意思の存在と迫力に圧倒されました。父は自分のすべてを込めた遺影を前もって準備していたのです。遺影を撮影した70代以降は本当の余生が始まっていたのかも知れません。父に向けて語った言葉は迷った末に「土」と共に生きて来た人生で在ったとしました。米を作り、花を育て、鶏を飼い、土にまみれて生きてきた人生だったのです。田圃を耕していた父の若い頃の姿が私の父親の原点だったのです。まだ開発されていなかった佐賀駅の北側の、広々と広がる田圃を黙々と耕耘機を使い耕していた姿が、何かを語る言葉よりも印象深く刻まれているのです。親が子に伝えることは、偉そうな言葉ではないのです。やはり、生き様でしか子には伝えられない事を学びました。多くを語らずとも深く伝えることが在ることも知りました。苦労の多い人生であったかも知れませんが、孫の読んだ弔辞の中に、人間の優しさと暖かさが溢れていたとあり、孫を始め多くの方々に慕われていた父の姿が浮かび上がってきました。
 
 夏を感じるいとまもなく過ぎ去っていった夏。佐賀から小国へ帰る7月の大分道で夏の始まりを示す大きな入道雲がわいていました。若い頃は、夏の入道雲に向かってバイクを走らせていました。雲の向こうの彼方には未来が待っていたのです。未来の何かをつかみたくて、走っていたのですが、なかなか何かには到達できません。到達できなくても、未来への何かを目指す姿が人生のような気がします。以前のようなたぎるような体では走れませんが、お客様への温かいおもてなしは、今以上に努めていくつもりでいます。

 蝉の鳴き声に代わり、夕暮れと共に秋の気配を漂わせる虫の声が辺り一面から聞こえています。夏の日射は秋の静寂の風に代わりました。色づく秋の装いの季節が近づきつつあります。コスモスの風に揺れる秋の始まりは、人生の装いを深く考えさせる季節の始まりでもあります。


24年9月10日
古天神 井崎



posted by 風のテラス 古天神 at 10:37 | Comment(0) | 風のテラス便り
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