2025年04月28日

 庭に小さな林をお持ちの方なら冬の時期に野鳥が飛来するご家庭もあるはずです。枝に刺した蜜柑等を目指してヒヨドリや目白さん達がやって来ます。目白はほとんど一組でやって来ます。かわいい仕草で、えさを啄む目白さんを部屋からこっそり見るのが楽しい冬の一日でした。

 さて、中央農協の周りに農地を見なくなって久しくなります。農地の中に町があった佐賀が、都市となったことは喜ばしい事ですが、反面、昭和の人間としては、稲や麦の農地を見ない街の姿には一抹の寂しさも感じます。昭和の時代、農業は田植えも稲刈りもほとんどが手作業の重労働でした。ところが最先端の現在の農業はコントローラを扱う指だけで農耕が出来るようになるまでに進歩して来ました。

 親父は田植え前の田に水を張るのに足で水車を漕いで、水を満たしていました。あの姿を見て、なんと農業は重労働だろうと子供心に思っていました。サービス業とIT産業が中心の中で農業が古くさいと国民の意識の片隅に追いやられつつある事は残念なことです。

 古くからある歌舞伎等の芸能が家元制度で脈々と守られています。農業が日本の伝統文化を育て継承していると捉えて、それを守り伝えていくのが農業であり農協という家元であるとの視点の転換をしていってはどうでしょうか。農業の後継者である若い人が大自然を相手に出来る、また食文化を形成する農業の魅力に惹かれ、新規参入者として増加するような、農協活動の新たな取り組みの模索は農業の生き残りのために当然必要な事です。

 目白の話しの所でお気づきでしょうが、1羽ではなく一組と記しました、目白さんはほとんど二羽のつがいで飛来します。農家と農協が一組となり市民の期待に応えるべく互いに切磋琢磨の共同体として進んでいきましょう。
理事井?秀樹



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6月となると雨が続きます。そろそろ「ながせ」に入ったばいと祖父達が会話をしていました。「ながせ」「長雨」とは佐賀弁で梅雨のことです。農家にとっては梅雨はなくてはならない季節です。水の管理は死活問題で一晩中田に水が溜まるのを親父達は機械揚水になっても見守っていました。

苗床から天担ぎした苗を田に運び、田に投げ入れていました。そこには数人のもんぺ姿の田植えさん達が腰をかがめて田植えをされているのです。すべて手作業で真っ直ぐに苗が1本1本植えられて行きます。多分その光景は江戸時代から続いていたはずです。田植の後、行儀良く並んだ緑の苗の田圃は見事でした。昭和40年代は耕耘機が導入され初めていましたが、親父達は今のような田植だけは手作業が複雑すぎて機械化は無理だろうと話していました。どこの農家さんも集中してやる田植えは数人の人の手がないとやっていけない農家の大行事だったのです。

 そこで、我が家もこの時期だけは女性の「田植えさん」が来られていました。数日間は我が家で寝泊まりをされていましたので、母は朝食だけで無く昼も夜も食事を用意しながら自分も田に出ていたのを覚えています。父も忙しかったはずですが、母は家事をやりながら田もやるとんでもなく忙しかった時期だったはずです。農家は似たり寄ったりの苦労が多かったはずです。

手配師さんの紹介で「田植えさん」達は主に柳川方面もしくは田植えが早く済む山間地から見えていたようで、我が家が済むと他の地〆に移られていました。 1日中腰をかがめての重労働を何日もやられていました。その方々もいつの間にか来られなくなりました。農作業の機械化は予想以上の速さで進みなんと田植えまで機械化され「田植えさん」達が不要となったのです。

正に手塩に掛けて米を作っていたのです。だから、祖父は米一粒を大事に粗末にすると罰が当たると言ってました。それほどに米を大事にしていた頃は農業が国の中心であり農協も元気があった時期です。米余りの現状からすれば遠い時代のようですがほんの数十年前の事です。米が農業が国の根幹である、それに深く携わっている農家・農協がもっと完気になるように互いに共同の力を強くして行きましょう。
理事井?秀樹

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 中学生の私の部屋は家の中を転々とさせられました。
弟・妹たちが産まれて部屋を譲ることになり家の片隅
の土間の米櫃等が在った所が改装されて寝るだけの3畳ほどの狭い部屋になりました。昭和の頃は兄弟が多く多分どのご家庭でも部屋の割り振りには工夫されたようです。祖父母も当然同居の大人数の家族だったのです。

 新しい部屋に移るとその窓の外で馬の顔と対面したのです。農家には小屋は付きもので今ではどこの農家もなくなっている縄をなう機械が在りました。農作業で使う縄や茣産を稲わらから編んで自給自足をしていたのです。その小屋の隣が馬小屋だったのです。

 親父は朝晩馬に水や飼い葉桶に刻んだ枯れ草や藁等を与え、その手伝いもしていました。その時代のほとんどの農家では農作業用の「農耕馬」を飼っていました。母の実家の富士町の北山では傾斜地が多いので馬よりも踏ん張りが効く牛が飼われていました。馬がいつの頃からか飼われ農耕に使われていたのかは分かりません。昭和の初めの写真には親父が馬に引かせた鋤で田起しをしていた写真があります。

 馬の出番は1年でそう多くは無かったと思いますが、田植え前の代掻きには馬の後ろに丸太を引かせて田をしていました。人力だけの耕作から馬による耕作となり大いに助かっていたはずです。馬の出す排泄物も肥料となっていました。

 神野小の東側にあった臨鉄屋さんが馬小屋に来て馬の路を削っていたのを覚えています。身近に馬が居るなど現代では考えられないですが、機械化された今とは違って農業が集落の中心にあり人と馬との共同作業でもあった時代です。勿論、機械化で肉体労働が軽減されたことは農業の進歩ではありますが、食の多様化で米食離れが進んでいることは、美味しい米がどんどん栽培されているのに機械の先にこのような時代が訪れることは農家・農協にとって残念な事であります。

 しかしながら必ず農業の勢いは盛り返されるのでありその兆しもあります。「農耕馬」を育て馬の匂いが立ち込めていた馬小屋には、馬の鼻息の荒さがあったように、また力の象徴として「馬力」が使われるように、農家・農協も今一度馬に負けない鼻息の荒さ強さを取り戻しましょう。
理事井?秀樹


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 初夏の農地の風景です。ただ麦畑とは理解していても一般の人は何の麦かまでは知らない人が多いようです。私も麦畑を見ても種類までは分かりません。パンを作る原料が小麦とは誰でも知っていますが、ビールの原料が麦なのは理解されていますが、大麦の中の二条大麦であることまでは余り知られていません。

 麦は味噌や醤油の原料でもありますが、原料は大麦の中の六条大麦なのです。麦ごはんの麦も大条です。二つの違いは麦の穂の並び方の違いによるものです。ただ佐賀では二条大麦の事をビール麦と呼んでいます。だから初夏の風物の「麦秋」の麦は二条大麦と言っても過言ではありませんし、生産量全国1位で小麦は全国3位です。


 若い人には麦と言えばパンの原料と誰でも知っています。麦を粉にしたものの内張力が強い強力粉がパンの材料であり、普段料理に使うものは薄力粉で、饅頭とかには中力粉を使用します。この麦は脱穀した後は麦わらとして保存しておき、かまどでの燃料に使われていました。麦わらのパチパチと燃える音が昭和の朝の農家にはなくてはならない音の風景であり、お母さん方は料理作りに大変な思いをして燃やされていたはずです。

 麦が熟れる初夏でも米の実りの秋の収穫に合わせて「麦秋」とこの時期を表現したようです。多分のどかな風景をイメージさせますので、麦刈りの収穫に忙しい農家以外の人が名付けたものでしょう。農家の人にとっては梅雨が始まる前に収穫をしなければならないとても慌ただしい時にのんびりとしたイメージがある「麦秋」などとは考えなかったはずです。

 ただ、佐賀の初夏からの「麦秋」の光景は温かい地域だったから出来た二毛作なのです。寒い地域では雪が遅くまで残り田畑の利用は米作りだけとなっている地域が多いようです。ビール麦で全国1位、小麦で3位の二毛作代表県の佐賀の質の良い麦で作られたビールが、これから夏となり愛飲家の喉を潤していることを想像すれば県民としても誇らしいことです。
理事井?秀樹




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posted by 風のテラス 古天神 at 10:21 | Comment(0) | 農協