2025年04月28日

「農耕馬」
中学生の私の部屋は家の中を転々とさせられました。
弟・妹たちが産まれて部屋を譲ることになり家の片隅の土間の米櫃が在った所が改装されて寝るだけの3畳ほどの狭い部屋になりました。昭和の頃は兄弟が多く多分どのご家庭でも部屋の割り振りには工夫されたようです。祖父母も当然同居の大人数の家族だったのです。新しい部屋に移るとその窓の外で馬の顔と対面したのです。

農家には小屋は付きもので今ではどこの農家もなくなっている縄をなう機械が在りました。農作業で使う縄や茣蓙を稲わらから編んで自給自足をしていたのです。その小屋の隣が馬小屋だったのです。

親父は朝晩馬に水や飼い葉桶に刻んだ枯れ草や藁等を与え、その手伝いもしていました。その時代のほとんどの農家では農作業用の「農耕馬」を飼っていました。母の実家の富士町の北山では傾斜地が多いので馬よりも踏ん張りが効く牛が飼われていました。馬がいつの頃からか飼われ農耕に使われていたのかは分かりません。昭和の初めの写真には親父が馬に引かせた鋤で田起しをしていた写真があります。馬の出番は1年でそう多くは無かったと思いますが、田植え前の代掻きには馬の後ろに丸太を引かせて田をしていました。人力だけの耕作から馬による耕作となり大いに助かっていたはずです。馬の出す排泄物も肥料となっていました。

神野小の東側にあった鉄屋さんが馬小屋に来て馬の踊を削っていたのを覚えています。身近に馬が居るなど現代では考えられないですが、機械化された今とは違って農業が集落の中心にあり人と馬との共同作業でもあった時代です。勿論、機械化で肉体労働が軽減されたことは農業の進歩ではありますが、食の多様化で米食離れが進んでいることは、美味しい米がどんどん栽培されているのに機械の先にこのような時代が訪れることは農家・農協にとって残念な事であります。

しかしながら必ず農業の勢いは盛り返されるのでありその兆しもあります。「農耕馬」を育て馬の匂いが立ち込めていた馬小屋には、馬の身息の荒さがあったように、また力の象徴として「馬力」が使われるように、農家・農協も今一度馬に負けない鼻息の荒さ強さを取り戻しましょう。

理事 井崎秀樹
posted by 風のテラス 古天神 at 10:22 | Comment(0) | 農協

「麦秋」
初夏の農地の風景です。ただ麦畑とは理解していても一般の人は何の麦かまでは知らない人が多いようです。私も麦畑を見ても種類までは分かりません。パンを作る原料が小麦とは誰でも知っていますが、ビールの原料が麦なのは理解されていますが、大麦の中の二条大麦であることまでは余り知られていません。麦は味噌や醤油の原料でもありますが、原料は大麦の中の六条大麦なのです。
麦ごはんの麦も六条です。

二つの違いは麦の穂の並び方の違いによるものです。ただ佐賀では二条大麦の事をピール麦と呼んでいます。だから初夏の風物の「麦秋」の麦は二条大麦と言っても過言ではありませんし、生産量全国1位で小麦は全国3位です。
若い人には麦と言えばバンの原料と誰でも知っています。麦を粉にしたものの内張力が強い強力粉がパンの材料であり、普段料理に使うものは薄力粉で、饅頭とかには中力粉を使用します。この麦は脱穀した後は麦わらとして保存しておき、かまどでの燃料に使われていました。麦わらのパチパチと燃える音が昭和の朝の農家にはなくてはならない音の風景であり、お母さん方は料理作りに大変な思いをして燃やされていたはずです。

麦が熟れる初夏でも米の実りの秋の収穫に合わせて「麦秋」とこの時期を表現したようです。
多分のどかな風景をイメージさせますので、麦刈りの収穫に忙しい農家以外の人が名付けたものでしょう。農家の人にとっては梅雨が始まる前に収穫をしなければならないとても慌ただしい時にのんびりとしたイメージがある「麦秋」などとは考えなかったはずです。
ただ、佐賀の初夏からの「麦秋」の光景は温かい地域だったから出来た二毛作なのです。
寒い地域では雪が遅くまで残り田畑の利用は米作りだけとなっている地域が多いようです。ビール麦で全国1位、小麦で3位の二毛作代表県の佐賀の質の良い麦で作られたビールが、これから夏となり愛飲家の喉を潤していることを想像すれば県民としても誇らしいことです。

理事 井?秀樹

posted by 風のテラス 古天神 at 10:21 | Comment(0) | 農協