「農耕馬」
中学生の私の部屋は家の中を転々とさせられました。
弟・妹たちが産まれて部屋を譲ることになり家の片隅の土間の米櫃が在った所が改装されて寝るだけの3畳ほどの狭い部屋になりました。昭和の頃は兄弟が多く多分どのご家庭でも部屋の割り振りには工夫されたようです。祖父母も当然同居の大人数の家族だったのです。新しい部屋に移るとその窓の外で馬の顔と対面したのです。
農家には小屋は付きもので今ではどこの農家もなくなっている縄をなう機械が在りました。農作業で使う縄や茣蓙を稲わらから編んで自給自足をしていたのです。その小屋の隣が馬小屋だったのです。
親父は朝晩馬に水や飼い葉桶に刻んだ枯れ草や藁等を与え、その手伝いもしていました。その時代のほとんどの農家では農作業用の「農耕馬」を飼っていました。母の実家の富士町の北山では傾斜地が多いので馬よりも踏ん張りが効く牛が飼われていました。馬がいつの頃からか飼われ農耕に使われていたのかは分かりません。昭和の初めの写真には親父が馬に引かせた鋤で田起しをしていた写真があります。馬の出番は1年でそう多くは無かったと思いますが、田植え前の代掻きには馬の後ろに丸太を引かせて田をしていました。人力だけの耕作から馬による耕作となり大いに助かっていたはずです。馬の出す排泄物も肥料となっていました。
神野小の東側にあった鉄屋さんが馬小屋に来て馬の踊を削っていたのを覚えています。身近に馬が居るなど現代では考えられないですが、機械化された今とは違って農業が集落の中心にあり人と馬との共同作業でもあった時代です。勿論、機械化で肉体労働が軽減されたことは農業の進歩ではありますが、食の多様化で米食離れが進んでいることは、美味しい米がどんどん栽培されているのに機械の先にこのような時代が訪れることは農家・農協にとって残念な事であります。
しかしながら必ず農業の勢いは盛り返されるのでありその兆しもあります。「農耕馬」を育て馬の匂いが立ち込めていた馬小屋には、馬の身息の荒さがあったように、また力の象徴として「馬力」が使われるように、農家・農協も今一度馬に負けない鼻息の荒さ強さを取り戻しましょう。
理事 井崎秀樹
中学生の私の部屋は家の中を転々とさせられました。
弟・妹たちが産まれて部屋を譲ることになり家の片隅の土間の米櫃が在った所が改装されて寝るだけの3畳ほどの狭い部屋になりました。昭和の頃は兄弟が多く多分どのご家庭でも部屋の割り振りには工夫されたようです。祖父母も当然同居の大人数の家族だったのです。新しい部屋に移るとその窓の外で馬の顔と対面したのです。
農家には小屋は付きもので今ではどこの農家もなくなっている縄をなう機械が在りました。農作業で使う縄や茣蓙を稲わらから編んで自給自足をしていたのです。その小屋の隣が馬小屋だったのです。
親父は朝晩馬に水や飼い葉桶に刻んだ枯れ草や藁等を与え、その手伝いもしていました。その時代のほとんどの農家では農作業用の「農耕馬」を飼っていました。母の実家の富士町の北山では傾斜地が多いので馬よりも踏ん張りが効く牛が飼われていました。馬がいつの頃からか飼われ農耕に使われていたのかは分かりません。昭和の初めの写真には親父が馬に引かせた鋤で田起しをしていた写真があります。馬の出番は1年でそう多くは無かったと思いますが、田植え前の代掻きには馬の後ろに丸太を引かせて田をしていました。人力だけの耕作から馬による耕作となり大いに助かっていたはずです。馬の出す排泄物も肥料となっていました。
神野小の東側にあった鉄屋さんが馬小屋に来て馬の踊を削っていたのを覚えています。身近に馬が居るなど現代では考えられないですが、機械化された今とは違って農業が集落の中心にあり人と馬との共同作業でもあった時代です。勿論、機械化で肉体労働が軽減されたことは農業の進歩ではありますが、食の多様化で米食離れが進んでいることは、美味しい米がどんどん栽培されているのに機械の先にこのような時代が訪れることは農家・農協にとって残念な事であります。
しかしながら必ず農業の勢いは盛り返されるのでありその兆しもあります。「農耕馬」を育て馬の匂いが立ち込めていた馬小屋には、馬の身息の荒さがあったように、また力の象徴として「馬力」が使われるように、農家・農協も今一度馬に負けない鼻息の荒さ強さを取り戻しましょう。
理事 井崎秀樹