2019年09月12日

ご宿泊のお客様へ予約や夕食等の確認の電話を差し上げております。


宿の固定電話でも連絡いたしますが、予約専用の携帯でも

連絡いたすことをご了承下さい。

        090−2716−9655

風のテラス古天神  井崎



1022

ドローン マービクズームによる宿の上空からの全景。

これから、ドローンで撮影した写真等を随時掲載します。

ご期待下さい。 古天神
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2016年07月27日

厨房から窓一杯にコナラやクヌギの葉に生い茂った雑草が夏の焼き尽くすような日射しを受けて緑が広がっています。その下を渓流の流れの音が絶え間なく響いています。

 この宿に来て約5年が経とうとしています。この厨房に立った頃は不安が一杯でした。まず、お客様にお出しするメニューが先の方は決まっておらず、頭の中は絶えずメニュー作りで一杯でした。たぶんそのころは他のことは何も考えられず、メニュー作りのことだけを考えていたような気がします。本格的な修業をしていない身に取って、実際にお出しする料理を作ってみると、とんでもないことを始めてしまったものだと思いましたが、初めてだったからやれたかも知れないのです。もし、宿がこんなにも大変なことと知っていたらやっていなかったかも知れません。開業前に業者の方から宿は大変ですよとおっしゃた事がその当時は全く分からなかったのです。

 料理だけではなく、温泉の管理に宿泊棟のおもてなしの準備にと女将の仕事も膨大な量にのぼり、とても二人だけではやれる仕事では無かったのです。女将の仕事も誰かに教わったわけではなく二人とも見よう見まねやってきました。料理はそんなに難しい専門料理をお出しは出来ませんが、家庭料理に少し工夫をしたような味付けを心がけましたところ、お客様には大変満足を頂くようになりました。料理だけをお出しするレストランと違うところは、あくまでも宿は温泉があり渓流のせせらぎが聞こえ、林の緑に、星空に、ゆったりと出来る宿泊棟に、お客様をお迎えするおもてなしの心と、それらの中の料理も一つであると位置づけているのです。ただ、ありきたりの料理はこれからもお出ししないように心がけていくつもりでございます。

 疲れたからだと心を自然の中で癒して頂き、のんびりとくつろいでいただけることを最優先に考えておもてなしに努めましたところ、お客様には大変な好評を頂き、アンケートでもほとんど喜びのお言葉を頂き、またお客様からのクレームも一度も頂いておりません。露天風呂と料理が好きでこの宿を始めたので、露天に囲いをもうけず川のせせらぎと対岸の雑木林を堪能して頂くように作り、最近では夜の灯りを消して、天気のいい日は星空を眺めて楽しんで頂き、6月の頃は蛍の乱舞も見られるようになりました。残念ながら今年の蛍は、大雨が続き見て頂く機会を逃してしまいました。

夕方近くなると蜩が羽音を立てて鳴き出します。この宿の季節でもっともいい季節はと問われましたときに、もっとも好きな季節は新緑の頃とお答えします。もっともいやな季節は実は夏なのです。佐賀に比べたら日中は相当に気温も上がりますが、標高が700メートルほどありますので、昼間でも湿度が高くならず爽やかで、むしろ朝方は寒いときもありますが、山の中ですので虫が多くまた雑草には悩まされます。ところがいやな夏でも、いいのは夕方から鳴き出す蜩の音に宿全体が包まれることです。渓流の音を背景に夏の宵が迫る頃に蜩しぐれに包まれる宿は他の時期にも負けない季節の風物を醸し出します。この地の夏は短いのです。梅雨が終わって、お盆が過ぎるともう秋の気配なのです。そして、いつのまにか蜩のしぐれを聞かなくなって、侘びしげな晩夏の宵に変わっていきます。

28年7月27日

風のテラス古天神 井崎

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2016年05月24日

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4月14日木曜日午後9時過ぎ、16日土曜日午前1時半頃に二度の地震に襲われました。そのときからなんとなく時間のすすみ方が真すっぐではないような気がします。余震が続いていたせいもありますが、いつなんどきまたあの時の激しい揺れに襲われるかも知れないという、不安定な揺らぎの浮遊感の中で生活を続けている感じです。熊本市や南阿蘇や、西原村で被災された方の中にはいまだ車中泊や避難所での生活を余儀なくされている方もおられます。この小国に居ても不安感を抱きながら毎日を送っていますので、被災地の悲惨な現状と今後を考えると胸が痛みますし、肉体的な疲れや精神的な疲れは想像をはるかに超えているはずです。大津や阿蘇の知り合いの所には支援物資を届けに行きましたが、生活が普段どおりに戻るのは容易ではないようです。

 地震の後には多くの方々からご心配の連絡を頂きありがとうございました。友人知人、親類にかつての経済連や高校の同僚に教え子や、80歳を過ぎられた小学校の恩師、20数年ぶりの高校の後輩、30年ぶりくらいの大学の後輩からも連絡を頂きました。なんと、この宿に泊まられたお客様からもご心配を頂き、励みにもなり心も強く致しました。連絡はあらゆる手段が使われました。電話、メール、ライン、フェイスブック、手紙、HP等からご連絡頂きました事を感謝いたします。

 5月の連休前で、ほん宿も満室のご予約を頂いておりました。せっかくの爽やかで新緑を楽しんで頂ける季節ではありましたが、5月のお客様は皆無となりました。幸いにも建物の被害はいっさいありませんで、器類が棚から落ちて少し割れた程度で済みました。温泉を心配しましたが、最初は泥湯の状態でしたがすぐにいつものお湯に回復しました。熊本に大分の観光地に温泉地はどこも客足が遠のき、大きな痛手を被っておられます。特に阿蘇の内牧温泉は3年前の大水害からやっと復活をしていた矢先のご災難、本当に悔やまれますが、お客様方は必ずどの温泉地にも戻っておいでになることを信じております。

 新緑も既に終わり、鶯の鳴き声も新鮮さを失いだした頃に、ホトトギスが鳴きだし、郭公も相変わらず遠くで鳴き出しました。もうすぐ蝉の初鳴きが始まります。春から初夏に季節は移っておりますので、お客様をお迎えする準備だけは整えながら、朝顔や向日葵やコスモスの種を植えておりました。来月にはお部屋や露天からも蛍が見られる季節となります。お客様のお顔が拝見できることを楽しみに、また本館でのお客様とのお話やお部屋に賑わいが戻ることを願って前に向かって進みたいと思っておりますので今後ともよろしくお願いいたします。

28年 5月23日

                              風のテラス 古天神
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2016年02月11日

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露天風呂横の蕗の薹

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ご飯に蕗みそを 口には春の香り

ここ宿も2月の半ばにさしかかりましたが、まだ時に朝方の気温は零下に下がります。地元の人もこの冬の寒さは厳しかったとおっしゃいます程に、1月下旬の寒波は零下10度以下にまで下がったようです。その大寒波が来る前に、水と温泉を出し放しにして佐賀に逃げ帰っていましたが、おかげで凍結による破裂等は起こっていませんでした。暖冬の予報で油断していた身には、あの寒波の寒さは佐賀でも震えていました。そのために、体の中は冬の寒さに対して身構え、春の訪れは先のことと冬眠を決め込んで、佐賀での用事を済ませたり、新しいプランを練ったりと、宿も2月は予約を閉め、生活そのものもまどろんでいました。宿に戻り、露天の近くにたまたま目をやると、枯れた庭の中で数カ所、緑が点在しているのです。蕗の薹が顔を出し、そのいくつかは既に外皮から抜け出そうとしているのです。まさかと、まだ身体も気持ちも冬のまっただ中で、春の兆しなど予想もしていなかった時に、蕗の薹に出会ってしまい、こちらが慌ててしまいました。本来ならば春の訪れをすなおに喜ぶべきなのですが、まだ待ってくれと冬の間にすべき事が残っているのにと正直困りました。春は一斉に樹木も草花も動物たちも、息子の巣立ちも仕事も全てが始動し始めるのです。まだ、その心の準備は整っていなかったので、もう暫くは、草木も眠らす冬の中で安眠をむさぼっていたかったのですが、どんなに寒い冬も季節は確かに移り、諸事にも休みなどはなかったのです。

 冬の音の風物としては木枯らしがありますが、この2月のこの時期は冬空を切り裂くような声を上げて飛び回るヒヨドリの声がありますが、今年はこのひよの鳴き声を聞いていないのです。ウグイスやホトトギスが鳴き出す前に、この鳥に冬の風物を感じるものですが、ひよが鳴かないと外の枯れた景色がいっそう寂しくなります。もしくは、蕗の薹に気が付かなかったように、ひよの鳴き声に気づかぬままに過ごしていたのかも知れません。佐賀で暮らしていた頃と違って、この宿をやり始めてから生活が変わってしまったのです。特に佐賀では農家であったために年中行事は農事に関する慣習で生活を送ってきていました。農協の倉庫で男衆達は注連縄を作り、女性はその手伝いと炊き出しの風景がありました。その、当時は何をそこまでしなくても、買ってくれば済むことと合理的に考えていましたが、それらが地域での付き合いであり地縁を形成していて、今にして思えば注連縄を作る共同作業が年末を彩る風景でもあったのです。以前は餅つきさえも近所の数軒で共同して搗いていました。まだ、小学生の頃朝早くから大きなモーターがうなりを上げて、機械での餅つきが始まるのです。祖父は餅取り粉に前垂れを白くしながら丸めていました。各家庭は前夜から水に浸して置いた餅米を蒸し上げてリヤカーに乗せてやってくるのです。母を始め女性の仕事はそのころも表ではなく裏方であったのですが、その支えがなくてはとても行事が維持できていなかったはずです。鏡餅にあんこ餅にひえ餅にとそれぞれの家庭の好みの餅が搗かれていたのです。そのついた餅は大きな水を張った桶に入れられてカビが生えて匂いまで付いていたのですが、それらを削って保存食としてつゆ頃まで食べられていました。
    
正月は厳かで厳粛なものでした。1月1日の朝は臼の上の年神様にお参りをして、台所の神様にもお参りをして、正月飾りの鏡餅の前にお参りをするのです。母が作った見事なおせちが並ぶ前で家族7名が座って祖父の話を静かに聞いたものです。正月とは1年の節目で生活が引き締まるハレの行事でもあったのです。この宿をやって5年が経ちました、ここでの生活も慣れては来ましたが、数十年に渡って続けてきた行事はやはり身体に染みついていたようです。サービス業ですし、人様を癒す仕事をしているとはいえ、自分の身体の中にあった生活リズムを変更するのはまだ時間がかかることを実感しました。そのために、なるだけ佐賀での行事も引き継ごうとしているのですが、宿でのおもてなしの仕事が主となり、正月に向かって年末を迎える心の準備も付かぬままに、あわただしく正月が過ぎていき、自分の中での1年の節目も付かぬままに1月も過ぎてしまっていたので、回りの季節の変化にも気づかず、まだ冬の寒さの中で仕事から遠ざかったままに自分のぬくもりの中で安眠をむさぼっていたようです。まだ眠ったままのまどろみの中でたゆたっていたかった目が、冬の冷たい土を割って芽を出した蕗の薹に目覚めさせられました。

 家族四人で蕗の薹の天ぷらを食して佐賀に帰させる予定でしたが、7日日曜日の朝の急な積雪で取りやめとなり、一人残った宿で蕗の薹のみそを作りました。蕗の薹は痛みが早く出やすい山菜です。外皮が開くのも早く、すぐに黒ずんで来ますのではさみで切り取って汚れを洗って、練りみそに刻んだ蕗の薹を入れて煮詰めました。冷ましてなめてみると、確かにほろ苦い中に春の香りが広がりました。

28年 2月11日

古天神  井崎
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2015年09月04日

くつろぎの大人の宿「風のテラス 古天神」
第3回ジャズライブ
 ゆったりした雰囲気の中で心ゆくまで大人のジャズを堪能 して下さい。          
            

 期 日 : 27年10月3日(土)
 
 時 間 : 開場17時  開演19時

 場 所 :  風のテラス 古天神 本館レストラン

 一般者 :  3000円  

 定 員 :  先着予約20名様 電話予約にて

 宿泊者 : 「月の音」「水の音」3名様以上
               料金はお一人様19800円
食 事 : 佐賀産牛カレーライスとワンドリンク                  

出演者
ベース    川上俊彦
ピアノ    緒方公治
ドラム 木下恒治
トランペット  古城 憲
ボーカル 大島麻池子

         博多の老舗ジャズ喫茶 リバーサイドにて活躍中
予約 問い合わせ
090ー2716ー9655 
                             古天神 井崎

なお、宿泊に関しては今回はすでに満室となっております事をご了承下さい。
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2015年05月26日

ウグイスの鳴き声も新鮮みに欠けだした頃ホトトギスがあちこちで鳴いています。春を代表する野鳥はウグイスに変わりありませんが、古来から愛され続けている野鳥はホトトギスかも知れません。和歌に詠まれ、徳富蘆花の小説の表題であり、正岡子規の弟子の高浜虚子からの伝統俳句がホトトギス派ともなったホトトギス。ウグイスとは違って情緒を感じさせる鳴き声ではありません。むしろ釈然としないような鳴き方なのです。聞く人によって鳴き声が違って聞こえる鳥はホトトギスしかいません。他の野鳥はさえずる鳴き方なのですがウグイスやホトトギスは季節を確かに具現する鳴き方なのです。まだ寒さの残る晩冬の初鳴きのウグイスには、待ちわびた春の到来を感じます。蝉も初鳴きをしました。しかしながら、何か釈然としない鳴き方のホトトギスの初鳴きは耳に残らないのです。いつのまにかあちこちで鳴いているのです。

 何か釈然としない鳴き方がそれ故に、夜のホトトギスの鳴き声には哀しみを覚えるのです。人の人生など釈然としない連続かもしれません。釈然としないために不思議であり未知であり、哀しみであり、生きている確かな手応えと安息を求めてもがいているのかもしれません。暗澹たる淵を横に見ながら危うい必死ながらも滑稽な歩みをしているのが、 大半の人たちではないでしょうか。多くの野鳥は一度聞いても似たようなさえずりで区別が付きません。ウグイスのような誰が聞いても分かるような鳴き方の人生を目指したり、多くの野鳥のようなさえずりにしかならない人生で終わる人が普通です。しかしながら、ホトトギスの釈然としない鳴き方に思いを馳せるのも人生の深淵を求める生き方かもしれません。だから、文学者はホトトギスを表題にしたのであり、ホトトギスは俳句の題材にもなるのです。

 宿に来て頂くお客様の人生の機微を聞くことがたまにあります。お客様とは程良い距離を保つようにしておりますが、この宿に来て頂くお客様は和まれてかよくお話をして頂きます。皆様暗澹たる人生の淵を覗かれていますので、この浮世離れした宿を気に入って頂いております。仕事や職業や地位は何であれ、誰でもその人の人生は外から見られるように華やかではないはずです。苦労と苦渋と忍耐の生活を送られた多くの方が、その苦労を外には出さずにしばしの憩いにお見えになります。その方々にしばしの安息の時をどこまでご提供できているか、まだ不十分ではありますが心がけているつもりではおります。家庭におもりを背負われた方や、仕事で寂しさを感じられたり、人は誰でも傷を内に担って明日に向かっているのです。人は強がりなくせに傷つきやすく寂しがりやでもあるのです。夜鳴きのホトトギスを聞いただけでも哀しくなるのです。哀しみを胸の奥に多くもたれた方が人に優しく豊かな方のような気がします。

 お客様からよくこの宿で癒されたとお聞きしますが、こちらとしてはむしろ、逆にお客様の言葉に励まされて元気を頂いております。いつも来て頂くお客様の顔を見ないと不安になったりするようになりました。お客様の笑顔が女将と二人で宿をやっていく上での大きな支えとなっております。



 遠くの方でカッコウが鳴き出しました。なぜかカッコウは遠くで鳴くのです。そしてこの時期にしか鳴きません。山の奥の方からかすかにしかし明確に聞こえるのです。初夏の到来です。つい先日まで石油ストーブを朝方につけていました。この小国では春はほとんど佐賀の冬に近い気温です。5月にして10度を切るなど、春の季節の中なのでよけいに寒さを感じていました。しかし、やっとカッコウが鳴きました。やっと春本来の気温になるようです。実はホトトギスもカッコウ科の野鳥なのです。カッコウは夏の青空をももたらしました。冬の寒さに震え、人生の鬱屈さに打ちひしがれていた身に、カッコウの鳴き声は光明をもたらしました。音楽がないと生きていけないほどの身でありながら、この数ヶ月音楽を遠ざけていました。音楽さえも受け入れないほどに、こころのひだが摩滅していたのです。山の奧から聞こえてくるカッコウの鳴き声は心を弾ませてくれました。明確な季節の到来を告げる鳴き声がお客様に届く宿になれるように、山の奥の方で精進を続けます。

ホトトギスおぼろに鳴きて石を蹴る

カッコウの鳴きける方に歩むのみ
 
摩耗せる心のひだでホトトギス

初鳴きの蝉は瞬く抜け殻や

のっそりと狸は動き世は眠る

ホトトギス鳴きやまぬ夜は闇のまま

カッコウの遠くに鳴きて空青し

カッコウの鳴く空遠く雨近し


風のテラス古天神  井崎
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2015年01月21日

 朝から重い雲に覆われ午後から小雨が降り出し、夕方から夜にかけも雨が降り続くようです。気温が下がっていたら雪になったのでしょうが冷たい雨が降っています。冬は雨ではなく雪にむしろなって欲しいのです。雨はその他の季節、春や夏や秋には似合うのですが冬にはどことなく間が抜けたような天気に思えるのです。冬の午後の青空も空気が澄んでいるために寒くはあるのですが、どこまでも突き抜けたような青空が広がります。山の稜線にクヌギ等の木立が立ち並び、その上の澄み切った冬の青空には寒さを忘れさせる程のものがありました。しかし、気温がゆるみ雨となりました。雨雲はすべての視界を遮り内向させてしまいます。もちろん行動も制約されますし、自ずと雨に降り込められた世界と向き合うしかありません。飛び回っていた小鳥たちも羽を休めて雨宿りをしているようです。もっと気温の高い時の雨ならば少々濡れてもそう気にはなりませんが、冬の雨は体に障ります。やはり、冬は雪が似合うのです。雪ならば何故か外に出たくなるのです。気温が零下に下がっていても外に出たくなります。雪はやはり、日常の暮らしを一時的に覆い隠す、非日常へと誘う特異な気候現象なのかも知れません。雪が降ると不思議と雪を触らなくては済まない衝動に駆り立てられます。雪が冷たいのは分かっていても、冷たさに触れて自分の存在の証を無意識に確かめているような気がします。もしくは雪が降ると普段は眠っている大人の顔として背伸びした疲れを解放して、童心を取り戻し、つかの間の子供の無邪気さに心を遊ばせ、元気を養っているのかも知れません。

 年末年始の数日間はおかげさまで満室での営業をさせていただきました。ただ年末寒波が全国を襲いここ小国でも30日から2日までの4日間とも雪になり、気温も連日零下の寒さとなりました。、宿の横の駐車場は積雪のため使えず、上の空き地を時松さんからお借りして臨時駐車場にさせていただいて、私の車で上と下の送迎をしました。この時期は全国的に荒れた雪の年末年始だったのですが、この宿では約15センチ位雪が積もり、その積もった雪が凍ってしまう程に気温が下がりました。この4日間は宿全体が冷凍庫に閉じ込められたような過酷な生活をさせられました。お客様方は雪の多さに来ていただけるかと心配していましたが、ほとんどのお客様は冬装備のタイヤに履き替えられて雪の山道を来ていただきました。感謝の言葉しかございません。本当にありがとうございました。敷地内も雪が残り食事時の本館に上がる凍った石段や、露天までの滑りやすい道でもご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。

その後、以前からお世話になっている地元の松平さんから指摘されていた、宿の坂を温泉の湯で溶かしたらいいというアドバイスを早速実行に移し、ファームロードからの入り口近くに雪を溶かすための蛇口を取り付けていただきました。今回のような宿の敷地内が雪で埋められてしまうということはないような対策を取らせていただきましたので、これからの雪でもご安心して滞在できるようになりました。ただ宿までのファームロードは相変わらず除雪がされませんので冬用タイヤでしか通行は不可能となります。

この年末年始は宿が雪に埋もれてしまいましたが、お客様には九州では滅多に見られない雪景色や雪見の露天風呂を堪能していただきました。お客様が喜んでいただけた表情が何よりの励みとなりました。日頃はしない雪かきの肉体作業に疲れ、足場の悪い中での部屋までの案内や、車が動けなくなった方の送迎等いつもとは違う応対に女将を初めスタッフ一同疲れ果ててしまい、4日以降は暫く放心状態でいました。お正月が来たのさえ頭ではわかり、年越しそばを作り、雑煮等も作ってお出ししたのですが、実感がわかずひたすらにお客様のおもてなしに努めていた期間だったようです。12月の中頃から準備を始め仕込みや買い出し等で忙しい前準備を行い、食材等も満室のお客様の分を用意していました。そこまでしていても、天気は何の配慮もすることなく大雪と零下という寒波をももたらしたのです。しかしながら、今となってはあの数日の過酷な雪の年末年始が懐かしく感じられるのです。大変な天気の中のおもてなしだったのですが、お客様には喜んでいただき、また次も来たいと言って帰って行かれたお客様がおられたあの数日間は確かな手応えを感じ取ることが出来た充実した時間だったような気がします。それが今となってはもう既に懐かしく思い出され、このことがサービス業という仕事の良さであり、次につながっていく宿の持つ醍醐味と言えるようです。

 もちろん年末年始が寒くても晴れ渡っていればそれはそれで、正月のめでたさを晴れやかにおもてなしできたと思いますが、もし、雪が降らず雨であったとしたら、あそこまでの充実感やお客様がおっしゃる想い出に残る滞在にはならなかったはずです。6月の雨には紫陽花が似合うように、やはり冬は雪でないと想い出にもドラマにもならないようです。

雪かきや埋もれた笑顔掘り出せる

 湯気立てる雪の露天は湯音のみ

 ピアノ聴く宿の外では夜も雪

27年1月21日
古天神 井崎

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2015年01月18日

谷底に落ちる気配よ月凍る

冬兎轢かれた耳の白さかな

問いただす視線漂い霰降る

薪はじけ独居の眠り深くなる

葉を落とすクヌギ林は星の棲む

冬枯れのクヌギも枝で探し出す

轢かれたる白兎(はくと)の涙凍りゆく

菫らを眠らす野原未だ霜

冬の月背に貼り付けて角曲がる

戸を閉めてより人を恋ふ寒の月

冬灯り探し求めて街を漕ぐ

ゆらゆらと情念の人雪溶かす

枯れ野さえ情念ゆらり焼き尽くす

買い物の籠も寂しげ松の内

言いしれぬ寂しき夜に雪灯り

屠蘇吞まぬ元日となる父居らず

なまこ食ふ正月の朝消えたまま

27年1月18日

古天神  井崎
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2014年10月24日

 雨も多く気温も上がらずに夏らしい天気に恵まれないまま、初秋には台風に襲来されてさんざんの気候でしたが、やっと秋も深まり落ち着いた天気が続くようになりました。宿での2回目となる大島麻知子ジャズライブの熱気の余韻を引きずりながら、やっと秋の景色に色合いが変わる頃、皆様への感謝の気持ちを込めつつ振り返っております。

 昨年の1回目は宿での最初の試みでしたので、とにかく無我夢中でした。女将と二人で企画を立ち上げ、とりあえず大島さんと日程だけを決めて、ポスターから会場の椅子、食器類、カレーの準備等と手探りの状態で始めました。幸い小国の地元の皆様を初め、お世話になっていた方々の協力を得て、どれだけのお客様が来ていただけるのか不安になりながらも 何とか開催にこぎつけました。あれから1年の時間の経つのが早すぎて、気持ちの準備が調わないまま開催の1ヶ月前を迎えてしまいました。

 お客様集めに苦労をしていましたので、お泊まりのお客様毎にジャズライブ開催の紹介をしていましたところ、幸いご予約をいただき、開催の2ヶ月前から満室をいただいておりました。ところが9月になりましてポスターを配布しましたが、一般のお客様の反応がなく、心配になりだしていました。9月中旬になりましても数名の予約しかいただかず、焦りが出てきていました。やはり2回目はお客様が減るというジンクスはあるのかなと弱気になっていました。しかしながら、こちらからお誘いの電話をおかけしましたところ、たくさんの皆様に応じていただき昨年同様の30数名のお客様に来ていただくことが出来ました。

 飄々とした博多のジャズの重鎮、ベースの川上さん、昨年のカレーがおいしかったと言っていただきカレーをお出ししたことを覚えていただいていただけでもこの上ない感激を覚えました。佐賀で開催したときの牛すじ大根もおいしかったと覚えていて下さり、気さくな人柄にますます魅力を感じていました。ベースは佳境の域を超えて奔放な旋律を刻んでいました。口数は多くなく控えめながらも緒方さんのピアノは流れるように、優しく起伏に富んだメロディーを奏でていました。演奏の前に焼酎を勧めておけば、ピアノの艶がもっと出ていたのかも知れません。昨年は初めての出会いだったので遠慮がちに叩かれていたドラムの木下さん、今年はきっちりと本来の音を出されてリズムにのりが出て気持ち良さが伝わってきていました。

 大島さん、ますます歌にも人生にも磨きがかかってきているような気がします。ニューヨークのジャズバーに出演されても多分好評を博するのはないかと、出演依頼が増えるのも納得出来ます。同じ高校の同級生で、現役時代は一度も言葉も交わしたことのない間柄ですが、還暦同窓会を縁に知り合うことが出来ました。遠い小国の地までの出演依頼にも快く引き受けていただき、何にでも好奇心旺盛で勉強家の大島さんにはこれからのますますの活躍を期待しています。私の好きなジャズのライブを宿で開催できるのも大島さんのおかげであり、宿をやっていなかったらジャズのライブを主催するなど思いもつかなかったはずで、人生の巡り会いの不思議さを感じています。

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ジャズ流る音の向こふは枯れ葉色


26年9月24日

古天神   井崎
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2014年10月23日

夜のカフェー孤独の月が友となる

阿蘇を背に青を突き刺す芒立つ

人会わぬ里の道にて熟柿踏む

熟柿より夕陽の赤の破れ出す

コスモスは矜恃を胸に風を受く

ゆっくりと熟柿の落ちて空曇る

コスモスの揺らげる庭の廃墟かな

村里の廃屋の庭芒立つ    



  古天神 井崎
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2014年09月02日

くつろぎの大人の宿「風のテラス 古天神」
第2回ジャズライブ
 ゆったりした雰囲気の中で心ゆくまで大人のジャズを堪能して下さい。          
            

1 期 日 : 26年 9月27日(土)

 
2 時 間 : 開場17時  開演19時

3 場 所 :  風のテラス 古天神 本館レストラン

4 一般者 :  3000円  

5 定 員 :  先着予約20名様 電話予約にて

6 宿泊者 : 「月の音」「水の音」3名様以上
               料金はお一人様19800円
7 食 事 : 佐賀産牛カレーライスとワンドリンク                   デザート付き

8 出演者

ベース    川上俊彦
ピアノ    緒方公治
ドラム 木下恒治
ボーカル 大島麻池子

         博多の老舗ジャズ喫茶 リバーサイドにて活躍中
予約 問い合わせ
090ー2716ー9655 
                             古天神 井崎

なお、宿泊に関しては今回はすでに満室となっております事をご了承下さい。

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昨年の第1回ジャズライブ
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2014年06月18日

 霧雨のような雨の中、宿の近くを歩きました。もやがかかり遠くの山々の景色は煙ってしまっています。一度夏のように気温が上がった後低い気温が続いています。今年が特別なのか、ここ小国では6月でも肌寒い日が続いています。5月の初夏を過ぎれば熱い夏に向かって進むのかと思いきや、夕方からは冬に戻ったかと思うような変化の激しい気候がこの小国の特徴かもしれません。幸いこの宿は標高が高いために梅雨時でも平地のようなじめじめ感が少なく、いくらかさらりとしていることをここに住み初めて感じています。

 梅雨のどんよりと曇った景色の中、雨に濡れた樹木の木の葉は潤いを持った緑を放っています。たっぷりと水分を吸って瑞々しい林や森の姿を見せています。雨は苦手なので梅雨も出来たら避けたいくらにありますが、激しく降らない霧雨のような雨は景色をしっとりと見せてくれて、梅雨の季節をゆとりをもって臨めさせくれる雨の降り方のようです。この宿からはしっとりと落ち着いた緑を濃くした樹木や草たちが見えています。厨房での料理の際に目の前に広がる緑に何度元気をもらったものか。お客様方の感想にもますます緑の覆われていくこの宿の静寂さを気に入ったいう声を多くいただくようになりました。建築当初よりも小鳥たちの鳴き声が多くなりました。姿はなかなか見せませんがウグイスにホトトギス、そのほか名前が分からない小鳥たちが数多くさえずりの声をあげています。もう初蝉も鳴きましたし、これから夏にかけてはヒグラシの大合唱に宿は包まれて行きます。

昔佐賀で農業をやっていた頃のこの6月の梅雨時は一年で最も忙しい時期だったのです。この宿で今このように梅雨景色をゆとりをもって眺めるなど全く考えられない季節だったのです。ただ子供でもあったので家中が田植えのために、とんでもない忙しさであったのは覚えていますが、どこか他人事のように過ごしていた気がします。多分両親が農業の苦労を余り子供にはさせたくない気持ちがあったのかも知れません。いくらかの農作業は手伝ったことはありますが、農業の本当の苦労をしないまま大人になっているようなので、今では両親に申し訳ない気持ちで一杯です。畦の草取りを父親としながら延々と続く腰をかがめた終わりの見えない農作業に自信をなくした情けない自分がいたことを覚えています。田植えや稲刈りをすべて手作業でやっていた頃の農業だったので特にやっていけるか不安があったようです。肉体的な農作業の苦労をしてきたあの時代は、江戸時代からほとんど同じような肉体に汗した重労働だったのです。あの時代は農業だけでなくその他の職業も似たような苦労をされていた時代だったはずです。人生の本当の苦労をされて来た人たちは腰が据わり体の奥底に芯を持っておられるような気がします。表面だけでなく、家族や地域に根付いた生活の重みを働きながら体現されてきたようです。それが社会であり、時代を作り伝統となり文化を形成し歴史となっていくのです。

 肉体に汗して働いている人の人生には頭が下がります。時代の発展とは人間の重労働からの解放でもありました。重労働だった肉体の苦労から解放され軽減はされたのですが、人間は新たな苦悩を抱えているのです。目の前の人の手の肉体的な労苦が機械やネット等が代わりにやってはくれたのですが、目の前にあったやるべき苦労に割いていた時間の使い方に慣れず、進むべき目標さえ見失い途方に暮れて、心の隙間を埋める手立てが見つからず、悩みを抱え始めているのです。延々と続く草取りは、延々と続いていくはずであった歴史の一コマであったのです。そこには肉体の苦労はあったのですが、苦労を誰もが共有しているという安心感が時代の証としてあったのです。だから誰もが苦労を苦労と思わず、また誰もが貧しかったので貧しさに恥ずかしさも生じていなかったのです。農業をやっていた両親の頃に都会の近代化が伝わってくると農業の苦労が顕在化してきたはずです。そのために子供には農業の苦労はさせたくない気持ちが湧いてきて子供に余り農作業を手伝わせず、親の自分の代で農業の行く末を見定めていたのかも知れません。

したいことをさせてくれた両親には感謝してもしたりません。親には相当苦労を掛けてきたのを子を持つ親となり今更遅いのですが実感しています。前のめりに人生を歩いてきたようです。何かにせき立てられるように。もっと立ち止まってじっくりと腰を落ち着けてあたりに合わせても良かったのかも知れませんが、前に突き進むことしか頭になかったのです。多分若いときの大病がそうさせているのは間違いありません。ここまでの人生をその当時は考えなかったのです。今では無謀なもなことを平気でやってきたし、やれた時代でもあったのです。大学を出て勤めていた所をやめて母親を泣かしてしまい、母親の心配をよそにバイクでは長野まで4回も走りに行きました。そのほか数え切れないくらいの心配をかけ続けたようです。農家の長男で佐賀を離れて宿をやるなど父親が元気な頃は言い出せず、隠してこの土地も求めていました。苦労を余り顔には出さずに働き続けてきた両親のおかげでこの宿もやることが出来たのです。


 曇り空の梅雨の季節には紫陽花の花が明るい光を周りに放っています。この小国では5月の連休頃に田植えが行われますが、梅雨の季節はどうしても両親が忙しく働いていた田植えの時期を思い出し、両親の苦労に思いが及びます。しっとりとした梅雨特有の季節がそうさせるのか、それとも小国の農家の方が雨の中腰をかがめて、苗の補植をされていたのが両親の田植えの姿を思い出させたのかも知れません。霧雨にけぶる山の梅雨の景色は緑をいっそう際立たせますが、時代から消えつつあるあの時代の農家の苦労も梅雨の空の中で忘れてはならない人間の大切な記憶として残していかねばならない気がします。その苦労の上に現在の私達があるからです。


ほととぎす鳴く夜は涙にじみ出る

郭公を遠くに聞きて人恋し

ほのかなる蛍の明かり胸に抱く
 

おぼろげな満月の夜はおろおろと

初蝉に真夏の空の降り注ぐ

整然と並ぶ早苗に父の腰

弟の逝きし6月雨重し

子を亡くす母の嘆きは梅雨の空  

梅雨空の虹の向こうに忘れ物

たたき梅作りし頃の子はいずこ

曇天の梅雨の空にも蛍飛ぶ  

儚さを紫陽花の赤包み込む

梅雨空の雨音聞きて本閉じる

虚しくて梅雨の雨にも傘差さず


 

26年6月18日




古天神 井崎
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2014年06月10日

宿泊料金について

平日と休前日の同料金設定は変わらなく引き続き実施いたしております。

お盆・年末・5月の連休に関しましては特別料金とさせていただきますことをご了承ください。なお、料金については宿の方に問い合わせください。

中学生以下のお子様連れの場合は全館貸し切りのみの対応とさせいただきます。

詳細については宿の方までご連絡をお願いします。

風のテラス 古天神
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2014年03月05日

 志賀直哉の「城之崎にて」を若い頃読んでいて、ずっと頭の片隅に残っていました。小説の内容は忘れてしまっていたのですが、街の中を川が流れている温泉情緒の印象がなぜか残っていたのです。奈良県にも2年間住んでいましたので関西のことは詳しかったはずなのですが、その頃は城之崎に行こうという気になっていなかったのです。今回京都に行く機会を与えてもらったので、どうしたわけか城之崎温泉が気になってしまい別府港からフェリーに車を乗せて行くことにしました。出発の日が近づく頃にあいにくの大雪になってしまい、いったんは城之崎に予約していた宿をとてもたどり着けないとキャンセルし、京都だけに行くことにしていました。別府までの高速も止まっていましたし、またあの過酷な一般道の雪道を行かねばならないのかと、京都旅行だけでさえ危ぶまれて来ました。そのため、とりあえず、別府に行ければなんとかなるはずと予定を一日早めて宿を出ました。玖珠に出るまでも道路には雪が残っており、車は横滑りにスリップしながゆっくりと進むしかなく、運転に相当神経を使ってしまい疲れ切ってしまいました。なんとか、国道210号線に出て湯布院までは行けたのですがその先は案の定交通止めです。ノーマルの一般車のためには交通止めが必要なのですが、別府のフェリーに間に合わせるためには先に行くしかなく、塚原高原経由で行くと最初の入り口付近は雪が多かったのですが、途中から除雪が進んでおり乗船時間の3時間前には別府港に着くことが出来ました。

おかげで一日早めに関西に上陸できたので城之崎に行くことが出来ました。宿はキャンセルしていたので城之崎の駅前の旅館案内所で当日の宿を予約しました。九州の冬のこの時期は宿のお客様は少なくなるんのですが、城之崎はお客様が多いのです。宿の近くに車を預け、城之崎温泉を歩き出したのですが、お客様が多いのが分かりました。確かに小説にあったように川が街の中を流れており、川に沿って宿や土産物屋 雑貨屋 城之崎温泉の特徴でもある温泉情緒を漂わせた外湯等々が並んでおり、お客様が街の中をそぞろ歩きするには最適な温泉地となっているのです。昔の温泉地にあったような男の遊び場的なものは一切なく、やはりここも女性客や家族・グループ様に喜んでもらえるような、街全体でお客様を歓迎しているおもてなしの心が伝わってくる配慮が随所にしつらえられていました。平安時代から続く湯治場であり明治以降は志賀直哉だけでなく幾多の文人墨客が訪れた温泉地であることが納得できました。また、若い人が多数訪れているのです。どうも大学生がグループで卒業旅行に来ているようなのです。だから、旅館案内所でも何軒かの旅館に満室ですと断られ、やっと川沿いではない駅の近くの旅館しか予約が出来なかったのです。

 夕食にはこの時期の山陰 北陸の冬の名物ズワイガニを堪能しました。佐賀の人間にとって蟹は太良の竹崎の蟹が最もおいしいと自負していました。ところが、焼き蟹を少し炙って食べたところ蟹の身が甘いのです。鍋の湯にさっと通しただけの身も甘いのです。仲居さんが自信たっぷりに進めてくれた蟹の味は間違いなかったのです。女将との会話も止まってしまい、城之崎まで大変な雪道を神経をすり減らして走り、半日のフェリーに揺られ、ナビでさえ案内がよく分からず、助手席の女将の指示なしでは走れない、大阪南港からの入り組んだ都市高速にも神経を使い、やっとたどり着いた城之崎温泉での温泉情緒とズワイガニのおいしさには、まさに旅の疲れを忘れさせるものがありました。夜には久しぶりに下駄の音を楽しみながら外湯を二つ巡りましたが、あちこちの宿からのお客様があふれていました。多くの宿の玄関先を見て回りましたが、旅に出たお客様をお迎えするさりげない趣向を大事にしているところが感じられ、下駄の音が似合う温泉地はやはり大勢の方々の、城之崎を大切にしようという心のまとまりをみる思いがしました。ゆでた蟹も出されていたのですが、これも身がしっかりと付いてた蟹の味が濃厚に凝縮した一品でした。

 女将は京都を修学旅行以来あまり見ていないということで、寺巡りも目的の一つにしていました。私が東京の学生時代に「女一人」の歌の歌詞にあこがれ、ユースホステルを利用しながら傷心の心を癒やしに、大学の2年時に訪れていた大原三千院を約40年ぶりに訪ねました。市内から離れていて冬でもあるせいか、参拝客は少なくゆっくりと拝観できました。三千院の門の前に立って、学生時代にはすべてが未知であり不安と好奇心とをない交ぜにしながら大きな門を見上げていたのを思い出しました。40年前の未熟すぎる私と今の私はどう変化し、どう成長したのかあの頃の未知なる未来にやみくもに燃えていた一本の芯のようなものは今でも体のどこかに宿しながら、歩き続けているようです。寂光院にも回りながら、学生時代にも訪れているはずですが、三千院からどうやって行ったのか思い出せないのです。若い頃は2キロの道のりも歩けたのかもしれませんが、幸い車で来ていたので近くまで乗り付け拝観しましたが、数年前の放火で全焼していたことさえ知らなかったのです。それほどに、仕事や生活に忙しく京都にたいする興味も失っていた頃があったのです。市内に戻る途中に金閣寺に行くことにしました。拝観終了20分前に着いたので、大急ぎで見て回りました。塗り直された金箔が夕日に照らし出されて輝いていたのですが、なぜか金閣寺には最初見たときから感激を覚えないのです。三島由起夫や水上勉に描かれた金閣寺は作品の中で象徴的な美があるようですが、庭園の池の中にむき出しに建っている配置が想像力をそぐのか、若い頃から金閣寺には足が向かないのです。庭木に囲まれた銀閣寺を翌日訪ねたのですが、やはり哲学の道に連なるしっとりとたたずむ銀閣寺の方に趣を感じてしまうのです。

 八坂神社の近くの駐車場に車を預け、祇園に足を踏み入れたのです。京都には大学時代何度も訪れていたのですが、この祇園は一見さんお断りの敷居の高い店が多いと聞いていたので若い頃は近づきがたい街でした。確かに、今でも茶屋遊びをするようなところは行けないのですが、祇園の街は花見小路を中心として、近代化された都会にはない、ここでも昔の生活を再現したような情緒あふれる街並みが形作られているのです。女将は今回の旅行の目的の一つに宿に飾れるような小物の雑貨屋巡りも楽しみにしていました。南座から八坂神社に続く両側の道には土産物屋や雑貨屋の店が並び立ち、店ごとに立ち寄っては品定めを楽しんでいました。花見小路の店で昼に食べただし巻き卵に京都の味の奥ゆかさを知らされました。しかし、京都の冬は寒く準備はしていたのですが、底冷えの寒さに震えながら祇園の街の賑わいの中の観光客の一人として、十数年ぶりに訪れた京都の町に溶け込んでいきました。

 嵐山も三千院と同時に訪れた京都の最初の思い出の地であり、嵯峨野はいずれはゆっくり回りたいと私の中で暖め残していた地であったのですが、少ない滞在時間の中では次回に回すしかありませんでした。桂川沿いに建つ老舗の旅館は、若い仲居さんに京都ならではの落ち着いたゆっくりした応対をしていただきました。日本料理の数々も仲居さんの応対一つで味に膨らみが出ることを教えられました。この冬でも京都は観光客が多いのに、秋のシーズンには渡月橋は人が多すぎて渡れないほどと聞き、寒いこの時期だからこそゆったりと京都は見て回れるようです。嵐山からまず、錦市場に行きました。ここは奈良時代にも訪れているのですが、あのときはまだ教師にもなっていず、まさか宿をやるなど考えてもいなかったのですが、どうしたわけかあの頃から市場の活気が好きで訪れていたようです。あの頃よりも錦市場は観光客が多く訪れるようになり活気があるように感じました。人生の伏線はこれまで歩んだ中にあったのかもしれません。他では滅多に食べられないつきたての餅で昼にしました。宿の食材のために買いたいものも多くありましたが、京野菜と新鮮な魚介類を目の中の土産としました。  

 京都最後の宿は円山公園の中にある町屋にしていました。外国人を始め京都を丸ごと体験できる町屋ステイが人気があるとのことで利用しました。町屋に車と荷物を預けまた夜の祇園に繰り出しました。京都の地の人が遊び楽しむ本来の祇園らしさは夜の街にあるようです。夜の祇園では茶屋や高級料亭から務めを終えた舞妓さんにも出会えました。舞妓さんの姿を見ただけでも祇園が花街としてのたたずまいを感じることができ、旅の風情をかき立てられるものがありました。町屋で紹介された京料理の店で夕食を摂りました。昼の祇園の喧噪の中では気づかないような京都特有の、細い路地の奥にひっそりと気品高く、しかしながら洗練されたメニューと味付けに驚嘆させられました。食事が終わって帰る初めて訪れた私達に、広い通りに出るまで路地の奥でオーナと女将が二人そろって頭を下げられている姿には京都の歴史の自負をひしひしと感じることが出来ました。左に南座を見ながら先斗町まで足を伸ばしました。もし私がお酒を飲めたならこういう場所で大人の遊びも出来たのでしょうが、全く飲めない者にとっては店の奥の賑わいはあこがれの世界でしかありませんでした。ただ、奈良の学生時代にはこの先斗町や木屋町にあったジャズ喫茶に時々通っていました。学生の身分としては祇園で遊ぶことなど大人の世界であったのです。この年になって初めて古都 祇園のたたずまいの一端を垣間見ることが出来たようです。新しさと古さ融合させつつ、決して伝統に埋没しない京都の進取さには若い頃から感心を抱いていました。

 約1週間近く宿を空けて戻ると、まだ雪は道の両側にうずたかく残っているのです。この小国の地が雪深い山里の地であったことを思い知らされました。祇園の賑わいから静かな山里に戻ると城之崎から祇園までの旅が、これまで宿をやっていなかった頃の旅とは違った視線で見ていたことを気づきました。旅の思いでの先にはまだ見ぬお客様の姿を想像しつつ、おもてなしの心を養うことが出来た旅となりました。

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城之崎温泉

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大原三千院
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寂光院
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金閣寺
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渡月橋
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銀閣寺
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先斗町
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高瀬川
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南座
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討ち入り前の大石内蔵助が遊んだ一力茶屋

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祇園花見小路
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祇園
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細い路地の奥に京料理の店

26年3月5日

古天神 井崎
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2014年01月14日

 薪ストーブに継ぎ足したクヌギがはじける音を聞きながら、3度目の緑を失った冬枯れの景色を眺めています。紅葉の秋から年末年始にかけて多くのお客様に来館していただきました。家族やご夫婦の温かい姿を見せていただき、こちらが元気をもらいました。先の見通しが暗く何かと不安をかき立てられる事象が多い中で、社会を形づくる家族や夫婦の在り方がしっかりしていれば将来もまだ展望が切り開けるだろうと安堵しました。空を背景にして整然と並ぶ葉を落としたクヌギの木立は冬にその姿の魅力を発揮します。夏の葉を生い茂らしたクヌギには目が留まりません。秋の紅葉ももみじやコナラの色には劣ります。しかしながら、葉を落とした冬のクヌギの木立の並びには目を引きつけられます。もし、その木立の中に夕日が沈んでいけば息が止まりそうなくらいの衝撃的な光景となります。雑木の代表であるクヌギも燃料としての薪や椎茸の栄養だけでなく、冬枯れの景色の中で空のキャンバスに奥行きを組み立てるなくてはならない素材の一つになっています。普段は注目されなくても、時と機会によっては存在を発揮できるようなそんな宿の在り方を冬のクヌギの木立に重ねました。

 まだ進路の決まらない子を持つ親として気がかりなことがあります。世間の荒波にもまれてこそたくましい大人に育つ、少々の苦労は若いときには当然であると大人達は社会の教育力を信頼していた時代がありました。だから若者が会社を早期に辞めることを忍耐心がないと批難はしても会社のとんでもない実態を知ろうとせず、いつの時代でも同じだと、自分たちの過ごした時代を基準に会社を擁護し子供を追い詰め、精神を破綻させるような実情が浮かび上がりつつあります。学校ではまじめに努力すれば誰かが評価してくれると生徒に教えます。それを信じたまじめな生徒は、会社や大人はいつかは評価してくれると長時間働き続けます。人の善意にあぐらを掻き人の努力する忍耐心を奪い取って、疲弊しきった抜け殻のぼろぼろの体にして追い出す企業があるようです。農業も歴史的には長時間の重労働の業種でした。しかし、今の劣悪の企業と違うのは人を使い捨てる発想はなかったのです。人手が足りない農家を助けるために「ゆい」のような共同作業があったし、収穫前と後には村の鎮守様の祭りがあり、ひとときの体を休める温泉旅行で羽目を外し鋭気も養ったようです。劣悪の企業は人を育てる発想は全くなく、ただ会社の利益のために使い捨てる人を道具としてしか見ていないようです。若者は国の将来の宝のはずです。人財として社員を大事にしてる会社も多くあります。そこで働く人たちはますます能力を発揮しやりがいもあるようで会社も成長しているようです。会社は社会の構成要素です。社会の荒波の一つとして、若者を国の将来のために成長させる健全な教育力も備えた企業に変貌を遂げて欲しいと子を持つ親は胸の奥で切なく願っています。

 社会全体で若者や子供を育てるという社会の教育力を衰退させ、人と人との間にあった扶養の心がけを壊し、劣悪な企業をはびこませた背景には、社会の活力は市場原理の導入によって達成させられるという時の政権の喧伝があったはずです。限りある資源を世界が分配して使うのは未来に対する責務のはずです。現在の時代さえ繁栄しておけば将来は関知しないというのは現代人の驕り以外のなにものでもありません。限りある資源を大切に使い子供達を大切に育てるのは将来に対する現在の私たちの努めでもあります。

 この秋からは多くのお客様方に来ていただきました。また宿の料理もほとんど好評をいただいたことを感謝申し上げます。料理がおいしいことは当然のことですが、お客様に満足していただく料理をお出しすることを日頃から心がけています。宿の料理はレストランの料理とは違います。あらゆる料理を食べられているお客様に満足していただくのは難しいものがあります。たぶん都会のレストランの料理がおいしいかも知れません。ただ、宿の料理がレストランの料理と違うのは、普通多くのレストランは人の生活圏の中にあります。宿は人の生活圏の外にあるということです。人は生活圏から外に出て旅に出ます。それが旅のはずです。生活圏は仕事や人のしがらみが詰まっている現実世界です。露天の木立から月を眺め、窓の外には小川が流れクヌギの山しか見えない世界が旅の世界であります。宿の料理はそのシュチエーションの中の一部でありその中に溶けもませて渾然一体となったのが宿の料理のはずです。

 夕食の最後にはご飯と普段は豆腐の味噌汁をお出ししているのですが、佐賀の大根を使った郷土料理である「雪汁」の味噌汁をお出ししました。ただ、だしを取った味噌汁に粗く摺った大根を入れただけでした。滅多におかわりをされない味噌汁を「雪汁」はおいしいとお変わりをされるのです。クヌギと同じで脇役の大根がその存在を大いに主張しました。しかし、声高ではなく優しい懐かしい味が受け入れられたようです。生活圏の外にある宿の料理はおいしいだけではなく旅の情緒を加味したものではならないようです。

26年1月14日

 古天神  井崎 
 


 

 
 

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2014年01月03日

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鏡餅と米にミカン飾り 
 
 農業を家業としていた佐賀では当たり前の昆布とスルメで飾る鏡餅ですが
 ここ林業の地 小国では違った飾り方のようです。
         

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宿の建具を作っていただいた近所の時松さん作の竹の門松

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 新年のフロント

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宿の食材を買いにに行ったキヨラカーサで「まるせい農園」の宇都宮さんが餅つきを
されていましたので、宿の鏡餅を搗いていただきました。

 佐賀では珍しくなった餅つきも小国ではあちこちでまだされているようです。

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今年の冬も大活躍の薪ストーブ  優しい温かさがお客様にも好評のようです。

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外輪山からの阿蘇山

 26年 1月 3日 
 古天神 井崎 







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2013年10月09日

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ジャズライブの会場案内

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紅葉間近の露天風呂

あいにくの小雨の中定員を10名もオーバーするお客様がおいでになりました。地元の小国を始め熊本市内や佐賀からまた大分の玖珠町からも大勢の方にお集まりいただいたことを感謝申し上げます。宿は山の中にあるために坂道が多くご来場の皆様にはご不便おかけしました。6時開場のところをそれ以前から続々とお集まりいただき佐賀牛カレーをご賞味いただきました。なにせ離れ3棟の小さな宿ですので、本館レストランでは狭く窮屈な思いをさせてしまったことをお詫び申し上げます。

 出演者の大島さんや川上トリオのメンバーは佐賀や福岡から3時頃には到着いただきん、早速演奏曲目のリハをされました。オープニング曲の「黒いオルフェ」に始まり最後の「枯葉」までの曲を、慣れたもので約1時間の音合わせで済ませ、佐賀牛カレーを摂っていただき開演に備えていただきました。

 宿をオープンする前からいつかはジャズライブをこの宿で開催しお客様とともに楽しむことを夢見ていました。佐賀では3回ほど開催しましたが、この山の中の宿でどうやって集客をしていくのか悩みがありました。しかしながら、踏み出さないことには始まらないと、まず大島さんと日程を10月5日と決めました。8月の末で準備に間に合うか心配でしたが、ここでも小国の方々の暖かい応援に助けられました。女将が作った手作りのライブ案内ポスターを持参し紹介していただくようにお願いしましたところ、快く引き受けていただき目の前で貼っていただきました。

 予約の方も大島さんにはもしかしたら全く集まらず0人かも知れないよと覚悟を決めて企画していました。その中で、最初に予約が入ったときには女将と大喜びをしました。その後はポスターを貼らせていただいたお店の方々や、ホームページを見たとかポスターを見たとか葉書の宿泊案内からご予約をいただきました。最終的には32名の方々においでいただきました。椅子もテーブルもカレーの皿もドリンクのコップも足りず慌ただしく準備に駆け回りました。

 佐賀牛カレーも3日前からチキンブイヨンを摂り、大玉ネギを約40個ほど炒め丸1日煮込み独特の調味料を加えて味を深め、金曜日の夜に肉を投入しライブの日の5日の午前中にカレールーを投入して完成させました。約50人分くらい作りましたので鍋を3つも使いましたので微妙に味に違いが出ましたが、どの鍋もおいしいものにできあがりました。ドリンクも予想以上にご注文いただきました。スタッフが足りず大忙しの裏方でしたが女将も喜んでいました。

 目の前の大島さんの歌や川上トリオの演奏を聴きながら、次第に盛り上がって演奏に乗って喜んでいただいているお客様の様子を見ることが出来ました。0人どころか32名の皆様がおいでいただき、地元の方々の篤い声援に感謝の一日でした。本当にご来館いただきありがとうございました。また、集客や当日の仕事をサポートいただいた皆様、お泊まりいただいた皆様にも感謝いたします。来年も開催することをお知らせしましたところ、来年のご予約を早速いただきました。

 つきましては、来年の古天神 第2回ジャズライブを予告します。

 大島麻池子ボーカルと川上トリオの演奏 

 26年9月27日(土)17時会場  18時半開演

 よろしくお願いします。予約は受付中です。
 

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開演前のリハーサル

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V O 大島麻池子「このすばらしき世界」

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ベース川上俊彦 ドラム木下恒治 ピアノ緒方公治

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熱唱 大島麻池子 「アメージンググレイス」

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大島麻池子と川上トリオ 「ミステイー」









 



 

 





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2013年09月13日

 10月5日(土)の第1回「風のテラス 古天神」ジャズライブはおかげさまで20日(金)現在20名の定員に達しました。もし、これからご検討の方がございましたら宿の方までお問い合わせをお願い致します。宿泊も残り1棟のみとなりました。ちなみに、ドラムの木下恒治さんが急遽出演することになりました。厚みの増した演奏も楽しめるようです。 古天神 井崎
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2013年08月16日

 第1回ジャズライブを「風のテラス 古天神」において企画しております。宿泊者の方はゆったりした雰囲気の中で心ゆくまで大人のジャズに浸ってご寛ぎいただきます。地元の方を始め一般の参加者の方も、なかなか小国では聞かれない博多のジャズを堪能していただきます。詳細については下記の通りになっております。
                記
 

期日   10月5日(土)

 
時間   開場18時  開演19時

場所   風のテラス 古天神 本館レストラン

宿泊者 「月の音」「水の音」ともに3名様以上でお受けいたし

      ます。料金は別途となります。

一般者料金  2500円  佐賀牛カレーライスとワンドリンクと

             女将特製デザート付き

定員  先着予約20名様 定員になり次第締め切ります

出演者

ベース  川上俊彦

 ピアノ  緒方公治

 ドラム  木下恒治
 

V O 大島麻池子

      九州ジャズ界で大活躍中のアーティスト   
   ジャズライブについての問い合わせ先
         
     くつろぎの大人の宿 古天神 オーナー  井崎
                             


 今回はVOの大島さんを始め、ベースの川上さんとピアノの緒方さんに参加していただきます。九州のジャズ界では第一人者の方々ばかりで大いに期待が出来ますので、皆さまのご来館を心よりお待ちしております。

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佐賀の自宅での川上トリオのリハーサル

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23年12月3日 佐賀の自宅での第3回大島麻池子ジャズライブ


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2013年07月15日

 夏野菜の畑の周りにぽつぽつと母はとうきびを植えていました。前年に種となるとうきびを数個納屋の隅に確保していたのです。4月の末頃に種を植えたら7月の終わり頃には茎が大きくなり数個のとうきびが実を付けていました。手のかからない植物なので植えたらほったらかしにしていても数個の実は生っていたようです。大きい鍋で塩ゆでされた熱々のとうきびは外の暑い日射しを見ながら縁側で食べる夏の風物でもあったものです。固くてかみ応えがあり味も濃厚だったのです。今のコーンのように大きくはなく、その頃の農家で作られたとうきびは小ぶりで身の色も黒や紫や黄色が混ざっていたのです。それは餅とうきびと呼ばれるものであり以前の農家では当たり前の家庭用の品種だったのです。身が固く都会の消費には商品としては不向きであるため廃れていき、農家の畑から消えていきました。私も家庭菜園をするようになりとうきびを植えてみましたが味が水っぽくておいしくはなかったのです。とうきびの主流となっていたスイートコーンだったのです。見た目はいいのですが、もちとうきびの味を知っている人間には物足りないトウモロコシでしかないのです。

 トマトにしてもキュウリにしても昔の味はよかったと年配の人からは聞きます。30年以上も前になりますが、畑になっていたトマトを直に口にしたときのトマトの味は今でも口に残っています。最近になり野菜の本来の素材の味を生かした料理が注目されだし、野菜の素材だけで作った料理は高価で贅沢な料理となっているのです。土にこだわり肥料にこだわって育てられた野菜は野菜本来の味を取り戻しつつあるので、レストランによっては栽培農家と契約して仕入れを行っている店もあるようです。野菜本来の味が失われるようになったのはどうしてでしょう。かつての農家は有機肥料を使っていたのですが、都会の消費地に回すため促成で大量生産を余儀なくされ化学肥料を大量に使うようになり土が疲弊し、それに見合う品種の改良もされて薄い味の野菜が出回るようになったのです。野菜は本来山菜から品種改良されて栽培種として育てられた物や、ほとんどの野菜の原産地は世界中に散らばっているため、野菜の持つ特性としてアクもその野菜の持ち味としてあったはずですが、消費者が野菜のアクを嫌い個性をなくした水っぽい見た目重視の野菜が店頭に並ぶようになってしまったのです。

 教育の現場でも企業が求める人物像でもかつては個性の重視が叫ばれていました。個性を持った生徒を本当に教師は求めていたのでしょうか。他と違う考えの生徒を変な子と扱いにくい生徒と特別視をしていたのではないでしょうか。会社を創造的に発展させるために個性のある社員を求めていたはずなのに、集団の中に溶け込めない才能のある者を雇おうとしない現実がオーバードクターとして才能の持ち腐れを生んでいるのです。才能のある人間や個性の強い人間はどこかアクがあるのはあたりまえなのです。社会がスマートになっていくことは人間の持つ荒削りな部分を研磨し、鋳型にはめていく行程の部分を教育は担っていたのかも知れません。現場の教員はそのことなどを気づくはずもありません。建前では将来の有為な人間形成とか将来の国作りの礎とか立派なテーマを与えられているものですから、目の前の受験のための指導に明け暮れていれば教師の務めは大半が果たされていると勘違いさせられていたのです。生徒の持つ個性を特徴としてとらえ切れない限り教師のいじめの対応は鈍いままだし、個性をつぶそうとする体罰もなくなりはしないはずです。コミュニケーション能力が劣っているので博士課程の大学生の就職先が少ないなど残念な限りです。日本の企業の創造的な分野での競争力が落ち込んでいるといいながら、チームワークだけに頼る協調性を大学生に求めるというのは企業の体質に矛盾があるのです。創業者的な経営者が少なくなりサラリーマン的な経営者は才能のある一風変わった人間を育てる器量に乏しいのかも知れません。人事採用の視点を変えてむしろ、オーバードクターの院生を集めた企業はこれから発展していく可能性があるかもしれません。そういう企業が増えれば、大学院に進学して研究を続けようとする学生も意欲的になるはずです。就職が保証されない大学院に意欲的に進もうとする学生は増えないはずだし、日本の研究開発に携わる特異な才能を持った人物の能力を発揮できる場も提供できるはずはありません。

 直木賞を受賞した若い作家がテレビで発言していたのを聞いて驚きました。作家然とした作家にはなりたくないとのことです。いかにも文学者の風貌をした作家が嫌われたのです。私の年代では太宰や芥川や谷崎の風貌が文学者だったのであり、文学の価値が作家の風貌でもあったのです。文学の世界でもアクを持った風貌の作家は嫌われ出したのです。その若い作家の風貌はタレントかサラリーマン風なのです、というより、サラリーマンをやりながら作品を書いており若い世代には支持を得ているのです。その作品が文学作品として残るか残らないかというより、マスコミの寵児としてもてはやされることが文学作品としての価値よりも重きを置いているようにしか見えないのです。文学者はアクの塊のような人間です。普通の市民生活を送れない者が、もしくは社会生活と相容れない者が生きていく道が文学と言った作家も居たぐらいなのです。私も教師然とした教師にだけはなりたくなかった。遠くから見ても教師のにおいのするすすけたような教師にはならないように努めていました。現場に勤めていて分かったのは教師の威厳によりかかった教師がそういう姿だったのです。眼中に生徒の姿のない教師がそうだったようです。しかしながら、私のそれは生徒にまっすぐにぶつかりたい思いの教師像であったのであり、文学者ぶらない作家の存在をもてはやす社会の在り方に疑念を感じざるを得ません。

 人との摩擦を避けるために薄ペラな人間関係を好む社会となりつつあります。薄味の見た目だけの野菜が好まれ続け、やっとこの頃になり野菜の本来の味の深さに目覚めつつあるのに、野菜の持つアクも野菜の本来の味の一つとして認識が広がりつつあるのはまだ社会の中ではほんの一部の人の嗜好に過ぎないのかも知れません。社会を深刻な目で見ていた文学者の風貌が嫌われ、深刻な課題をさらりと流すようなアクのかけらもないような風貌の作家をもてはやす社会の方が、その作家にとっては他人に無関心でいられる住み心地のよい社会なのかも知れません。餅とうきびのかみ応えある味は作り手を意識できる野菜だったのです。キュウリのアクのある味はキュウリの個性だったのです。トマトをかじると夏の夕暮れが口一杯に広がる味だったのです。アクは想像力を掻きたたせるのです。アクのある人間は一つのことに埋没しながら毒も吐くのです。毒を否定した平板な社会からは活力も生まれません。毒を薬に変えていくような、野菜のアクや人間の個性を面白がるような社会こそが力強い人間が育つ土壌を作っていくのではないでしょうか。

 蝉や小鳥達は始終鳴き交わしせせらぎの音も絶え間なく流れ込む、標高700メートルのこの地でも今年の夏の昼間は相当暑いです。下界ではクーラー無しでは過ごせないはずですが、夕方になると高原の心地よい涼風が寒く感じられるほどなのです。この地では高原の何ともいえない心地よい自然の風を味わっていただくためにクーラーは置いていません。その代わり、テラスには遮光カーテンを取り付けましたので西日をいくらかは緩和できるようになりました。午後6時を過ぎて夕日が山の端に沈む頃になると、この山里でしか味わえない宵の饗宴が始まります。せせらぎの音とホトトギスの鳴き声がバックに引いていき、次第に一斉に鳴き出すヒグラシの鳴き声に辺り一面は包まれます。その日の終わりでしかないのに人生を儚い気分に浸らせる切ないヒグラシの大合唱となり長い夏の一日の宵が暮れていきます。
 25年7月15日

 古天神  井崎 


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2013年06月09日

 皆さんはどんな思いの時に旅に出たくなるのでしょう。学生時代はあふれる好奇心の衝動に突き動かされてあちこちを見て回りました。すべてに対し真っ白な未知の頭の中を、旅をすることで体験を増やし空白部分を埋め尽くしたい欲望が渦巻いていました。自分の中に知らない所が在ることに対する不安と劣等感が、好奇心となって出ていたような気がします。そのため若いときの体験は失敗も含めてすべてが後の養分にはなったようです。社会人になってからは日頃の仕事上のストレスから逃れたくて旅行に出ていたようです。旅の大半は日常からの解放にあるとも言われるのはそういう意味で実感としていました。しかしながら、東北を旅してこの考えは甘いというのが分かりました。3・11以降ずっといつかは東北へ行こうと思い続けていました。長男は被災の半年後にボランティアで気仙沼に行き民家からの泥出しをやってきていました。6月は次男の広島に行く予定でいましたが、東北に行っていない次男からの提案もあり長男がボランティアをした気仙沼に行くことにしました。

 佐賀から特急と広島で新幹線に次男と合流し東京で東北新幹線に乗り継ぎ、仙台に付いたのは午後の5時近くになっていました。仙台では牛タンを賞味し、翌日仙台からレンタカーで気仙沼まで走りました。長男は大学の学生ボランティアに参加するために別府からフェリーで大阪まで行き、バスを乗り継いで気仙沼まで行ったようです。新幹線でも長旅なのにバスでの大阪からの長旅は若いからやれたのでしょう。気仙沼に着いたとたん目に飛び込んできたのは、1階部分が柱だけを残してむき出しになったままの家やビルでした。目に見える形で被災の跡が残っているのは片づけが進んでいるために少なくなっていました。観光支援という形の旅行であるために気仙沼港の近くに建てられている復興食堂の屋台村の魚介丼で昼食を取りました。何軒かの店に土産を買うためにのぞきましたが、こちらがささやかな支援のつもりで行ったのに、店の女性から「来ていただき感謝しています、ありがとうございます」と声をかけていただきました。激励するつもりで出かけたのに、被災地の方から最初に感謝の言葉をかけていただき、胸の中を熱いものが流れていきました。

 気仙沼から津波の被害地を見るためになるだけ海岸沿いを松島に向けて車で走りました。途中道路が寸断していて迂回の工事が至る所で行われており、また三陸鉄道の線路もあちこちで流され生々しい傷跡を見せていました。ただ、3・11の悲惨な状況をテレビで見ていたので現在の現地の様子から壊れた家もなくがれき等も片づけられ被災の実態を見ることが出来ませんでした。しかし、南三陸町に入って行くと何もないのです。現地の人に案内してもらったり予備知識が無くていきなり行くと何が何か分からないのです。何故かというと、街全体が無くなっているのです。家の基礎の部分が一部残っていたり、生活をしていた痕跡の破片があるくらいに一面草の生えた平坦地になってしまっているのです。家が無くなり商店が無くなり生活が流され、人が亡くなっているのに被災直後とは景色が変わってしまっているのです。想像力を働かせないと被災の実態に近づけないのです。その何もない平坦な地に鉄骨ばかりの建物が残っていました。なんと、そこが多くの人が津波の被災から逃れ助かるためにに避難して来た防災センター跡だたのです。佐賀では津波の高さが想像できないでいたのですが、建物の3階部分まで水が押し寄せ屋上の一本のポールに捕まってほんの数人の方が生きながらえ、多くの人が犠牲になった防災センターだったのです。今でも沢山の花束が捧げられ祭壇のようになっていました。手を合わせてご冥福を祈っていると、何台かの車が来ていました。

 日常からの解放を旅に出る理由を甘いと書きました。東北の被災地に行くと日常を営んでいた街がいっさ無くなっているのです。日常からの解放と言えるのはあくまでも日常を過ごせる街や家や家族が在ってのことだったのです。あの震災以来「ふるさと」の歌がよく歌われているのを耳にしていました。被災と「ふるさと」の曲が私の中で結びついていなかったのですが、あの南三陸町の何も無くなった街が在った場所に立って、歌われている意味が分かりました。街が無くなりそれまで暮らしてきていた「ふるさと」が消滅していたのです。都会に出て故郷を懐かしむ歌と理解していましたが、今歌われているのは田舎に残してきたふるさとではなく、被災した人たちの胸の中にしか残らない消えた街だったのです。多くの人は日常の解放された旅を楽しむのですが、それはあくまでも日常を営む生活の基盤が在って、もっと広い日常の中のささやかな日常に対する不満だったのかも知れません。

 東北の被災地の現地に出かけてみないと先に進めない負い目のようなものを抱き続けていました。何度も足を運ばれて復興支援を様々な形で今でもされている方々がおられます。ボランティアや無償の活動をされている方に対しては自分の無力さを恥じていました。また、被災された人々に寄り添いつつ直接の援助をしたり支援をされている人々には頭が下がるばかりでした。本当なら被災された方に直接話をお聞きし、被災の実態の一部でも共有できたらよかったのでしょうが、今回は観光支援という形でも大歓迎という話を聞き家族で出かけました。帰りの仙台駅で、地元の特産品を販売されている方が、震災を「忘れられることが一番怖い」と話されたことがもっとも印象に残りました。ともすれば、日常の生活に追われだして東北に目を向ける機会が少なくなっていることが日本全体の中で感じられることが気になっていました。まだ東北は道半ばであるし、福島の原発も収束にはほど遠い現状があるのです。被災地以外の地では日常の基盤が保障されているのですから、日常の基盤そのものを無くされた被災地に対しては今後とも何らかの支援の継続はしていかなければならないことを痛感した観光支援の旅でした。
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 南三陸町の防災センター


 25年6月9日
 古天神 井崎

 




 
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2013年05月10日

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春霞の中の阿蘇山
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新緑間近の久住連山
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新緑のクヌギ林
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新緑の草原で遊ぶ赤牛達
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宿のコナラの若葉

 宿にお泊まりになったお客様から時々、この宿はどの季節がいいですかと質問を受けます。質問をされるお客様にとって好きな季節はおありでしょうがこの宿にとってどの季節がいいのか返答に窮していました。温暖化や気候の変動があるため昔ほどには都会では四季の区別が付かなくなっているのかも知れませんが、それでもまだここ小国では四季の季節の顕著な移ろいが見られます。空調の利いた都会の室内で働く人にとっては、本当の冬の極寒の季節は遠い想像の世界の出来事なのかも知れません。この小国でさえ昭和の30年代は雪が約1メートルも積もり、気温もマイナス20度近くにも下がったこともあるそうです。最近は雪も降り方が少なくなりこの冬は2・3回数センチ降っただけで気温もマイナス7度位までしか下がりませんでした。温暖化の影響であることは小国でも歴然としています。

 大半の人にとって季節の変化など気づかなくても特に問題ではないし、もしかしたら今すぐには見える形で影響が出ない温暖化なども差し迫った問題ではないのかも知れません。今の日本の大多数の人にとっては経済の復活が目前の緊急の課題かも知れません。格差社会にさせられ利益の分配がアメリカ並みに偏ってくる社会では仕方のない事かも知れません。だから、古代の人々が和歌に詠ったり、清少納言が枕草子で描写した日本の自然の四季の風景などは過去の遺物で学校の教科書で習う退屈な古代文化でしかないのかも知れません。他人を平気で侮辱するフェイトデモを許すような、もしくは異なった意見を一斉に潰しにかかるような偏狭な民族主義の国にになりつつあるのは残念でなりません。経済的な劣等感が日本人の心のゆとりをなくし、愚かな政治の犠牲になった人たちの不満のはけ口として排外的なところに日本人の目をそらさせようとする目論見があるのであれば、国際社会の中で孤立した国になっていきます。ネットの匿名性の陰に隠れて他人を中傷したり侮辱発言を許すようでは礼節さを欠いた懐の浅い国に成り下がってしまいます。ある政治家は美しい日本のためにとうそぶいていました。美しかった日本の景観や日本人が持っていた品格や寛容の精神を壊しつつある背景にあるのが一部の拝外主義者に依存した政治を行おうとしている政治家なのです。自己の政治家としての信念を平気で捨て去りただ当選のためにだけ動き回るようなに政治家にこそ、本当の道徳や倫理観が必要なのです。

 この宿で1年を過ごしてみてどの季節もそれぞれに良さがあるのが分かりました。春の新緑、夏の涼風、秋の紅葉、冬の雪景色とどの季節も四季の良さがあるのです。だからお客様の質問に窮していたのですが、この春二度目の春をしみじみと眺めていると、次に質問をお受けしたら「春」がいいようですとお答えしようかと思うようになりました。春は新緑と決まり切った紋切り型に、ただ単に緑一色と思い描いていたのですが、じっくりと冬から春に推移する季節を眺めていると、新緑の中身が草や樹木によって微妙な色合いにの変化を見せているのが分かったのです。

 阿蘇に春を呼ぶ野焼きが終わって3月の中頃から下旬に掛けて一面の枯れ草の景色の中にぽつりぽつりとたくましい雑草の緑がまず出てきます。よく見ないとまだ緑は枯れ草の中に埋もれています、もちろんあちこちに蕗のとうが顔を出し始めたら春の始まりです。土筆が伸びだす頃にはスミレも咲き出します。このスミレの花が見られるのはこの時期だけなのです。枯れ草の中で小さく紫の花を咲かせるスミレは雑草が繁茂し出すとどこに行ったのか雑草におおわれてしまい見えなくなってしまいます。クヌギやコナラやブナやコブシに幼い緑の葉が芽生えてきます。秋には黄色になるイチョウも若葉の頃は緑色の幼い葉を付けます。露天の周りの群生したもみじも葉を付け出します。それぞれの樹木の葉の色もただ単に緑一色ではないのです。薄緑から深緑に萌葱色から浅緑にと対岸の山は春の色を様々に変化させながら初夏の季節へと移っていくのです。野焼きの済んだ阿蘇の黒く焼かれた草原の後には若草色から若葉色へと変わっていきます。冷たかった風も和らぎ心地よい風とともにウグイスやホトトギスの鳴き声が聞こえて来ます。宿やレストランの窓一杯に広がる新緑の景色と和らいだ風と小鳥の囀り小川のせせらぎに包まれる「春」は、この宿の最もいい季節とお答えしていいのかも知れません。

 宿の露天風呂を造って頂いたMさんから不思議な話を聞きました。露天の管理をして頂いているのですが、水漏れの修理の際にこんな事を話されました。石も乾くと水を吸うとのことです。石が水を吸うという事はにわかには信じられませんでした。露天の排水溝を締めて水を満水にしていると、露天を形成している岩石が水を吸っていくらか露天の水が減ると言われるのです。石達の乾きが溜まってからでないと、露天の満水の喫水線までお湯が溜まらないらしいのです。生き物は人間を初め生命の維持のために水は必須とします。しかしながら、石は生き物でしょうか。生き物ではないはずですが、京都の庭などに組まれた石達は存在を主張するどころか宇宙の空間さえ哲学的な空間さえ現出させているのです。「無能の人」では石を売る商売の人物が描かれていました。石を収集する人も居るほどに、石や岩石は魅力を放っているのです。女将が造る天然石のビーズもファンが多いのです。対岸の春の樹木達を堪能できるように配された露天の石達も独特の温泉の癒しの空間の形成になくてはならないものです。その石が水を吸うのです。生命を持つ物が生き物であるのは当然ですが、生命を持たずとも意図を持って配された岩石は生命を持った人間に、生命の力を与えていると見れば生きた存在と同じものと見ることが出来るのではないでしょうか。または、生きとし生けるものだけが生命体ではなく、この地球上で変化しないものはないはずで、変化している物はすべてが生き物ではないでしょうか。そうなると、そこでは渇いた石がわずかに水を吸うという現象も説明が出来るのです。

 植物にとっては生命の息吹が吹き出す春といわれます。新入生や新社会人にとっても春は人間としての成長の始まりの季節なのです。芽吹くことにより、歩き出すことにより始まる春があるように、その存在を人間の意図により働きかけることによってやっと生命の春を迎える生命を持たない存在の石もあるのです。阿蘇には人が働きかけることによって活き活きと生命を主張し出す素材が多くあるはずです。人の手を加えない自然のままの景観を大事にすることは当然のことですが、人の手を経ることにより生命が吹き込まれて動き出す物もあるのです。萌葱色の新緑の若葉により新しい感覚をよみがえらせる事が出来ました。春はそういう躍動していく四季の始まりの季節なのです。石にさえ生命の息吹を感じることが出来たのも、あらゆる生命のみずみずしさを感じ取る阿蘇の大自然の中に抱かれて生活を始めたおかげかも知れません。
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やっと春を迎えた宿
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春の露天風呂
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「空の音」から見る春の三日月
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25年5月10日
古天神 井崎












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2013年04月09日

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五十鈴川
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参道には常緑樹が多く見られました
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樹齢500年の杉の大木に触れてパワーをもらいました

 人が集まりにぎわう場所も時と時代により変わってきます。時代の変遷とは地域の人の離合集散の歴史であるかも知れません。その背景にあるものはいかに時代の先を読めたかにかかっているようです。特に地方の街や観光地・温泉地の変遷は激しいものがあります。昔の人は選択肢が少なかったので限られた温泉地に年1回行くことを何よりの慰労としていたようです。明治生まれの祖父も佐賀から杖立や天ヶ瀬等の温泉地に農作業等の骨休めに行くことを何よりの楽しみにしていたと聞いていました。九州の近県までがせいぜい慰労の場所であった時代と違い、現在は日本の国内はおろか海外の様々な場所にまで行けるようになりました。また魅力的な場所の情報の豊富さには迷ってしまうほどになりました。人の好みも瞬く間に変化していく中で、激烈なほどの人の引っ張り合いが展開されているのが現在の観光地や温泉地の現状です。この小国も隣の南小国町の黒川温泉の陰に隠れてしまい、今一つ存在感を発揮できないでいるようです。

 小国町が林業や農業や何を経済の基盤としていくのかの指針がよく見えてきません。温泉地もあるのですが全国区の黒川のような温泉地が隣りにあるせいで、目立つものの横はどうしても見劣りがしてしまうのです。小国は観光地としても温泉地としても活用できる資源を持ちながら生かしきれていない気がするのです。人は人が集まる場所に引きつけられるのです。最初に人を引きつける魅力的なきっかけが必要なのです。一過性の仕掛けではすぐに飽きられてしまいすぐに見向きもされなくなります。永続的でなおかつ誰彼無く人が集まるよう要素がなければこれからの観光地や温泉地は生き残っていけません。一度人が集まり出せばその動きが人を寄せてくるそれがブームなのです。しかし、ブームはいつかは潮が引いていくのです。一時のブームではない絶えずリピートしてくれて世代を変えて訪れてくれるような、そういう温泉地がこれからは求められるはずです。人が多く集まる場所に何故人は集まって来るのかをテーマに小国でのこれからの地域づくりと宿を考えていきます。

 三重県の桑名に用事が出来たので伊勢に行って来ました。滅多に訪れない三重県となればお伊勢さんの参拝は欠かせません。女将は初めてのお伊勢さん参りと、ビーズの手作りをやっているので丸くない真珠を手に入れたいと出かけました。私は奈良大の卒業の時に母や叔母や妹達と34年前に訪れたことがありました。その当時は参拝客も少なく静粛な中で厳かな雰囲気をたたえていました。全国に知れ渡った知名度の割には俗化していない、さすがに神様の総帥の社であると思っていました。ところが、その34年前からお伊勢さんに抱いていたイメージは見事に覆されてしまったのです。式年遷宮の年であり春休みであったかも知れませんが、内宮は人で埋め尽くされていたのです。江戸時代のおかげ参りで全国から人が押し寄せたのを彷彿とさせる人の多さだったのです。神域に入ていく厳かさありがたさは残念ながらその日は薄れていたのですが、人が多く集まるのには仕掛けがあったのです。34年前にはなかった江戸時代の大繁栄を再現させた街が作られていたのです。佐賀の祐徳さんを見れば分かるように、門前中町だけでは人は集められないのですが、今はやりのレトロな街をお伊勢さんとセットにすれば人は集まるのです。おはらい通りとおかげ横町には赤福の本店を初め土産物屋や食べ物屋真珠の店松阪牛の店伊勢うどんの店等雑多な店がどの店も活気と人が溢れていたのでした。

 昔にぎわっていた街が寂れていくのは寂しい気がしますが、以前より活気が出ていたのはそこに人々の知恵が加わり人々の結集の熱意が感じられて嬉しくなりました。34年前の静粛さも懐かしいものですが、人が集まれば街も潤い元気が出ます。江戸時代の賑わいを取り戻したお伊勢さん、外宮の前で休んだ赤福の茶店で食べた赤福は観光地にある名物の土産物用の浅い味ではなく本物の餡の味がしました。おかげ横町で食べた独特の醤油を掛けただけの伊勢うどんの味も忘れられない物となりました。神様のパワーの力はあまりに人が多く薄れてしまっているように感じましたが、人が群衆のように集まる所にはそれなりの熱気が働き、その街全体から何らかの力を発しているものを感じました。もちろんそこに住む人々や働く人々はお伊勢さんに感謝をしているに違いないと思いました。

 お清めのため、賑わいの参拝客の列からはずれて五十鈴川に近づくと、川の流れは34年前と同じく清らかに流れていました。散りかかった桜を映して川の流れが昔のように静かに流れていました。昭和54年のその年から教職に就いたのがほんのついこの頃のように思い出されました。34年たち私の人生の流れは紆余曲折を経て、その時には想像もしていなかった小さな宿の河畔に立つことになりました。江戸の昔から静かに流れ続ける五十鈴川も多くの参拝客の人生を川面に映して流れてきたはずです。時代が流れても変わらない流れがあるように、静かな中にも人を引きつけて流れていく流れのような宿を目指して、人が集まる所以は何かを絶えず考えながら宿の流れを作っていきます。

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溢れる人のおはらい通り
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真珠 赤福 伊勢うどん 松阪牛の串焼き


25年4月9日
古天神 井崎






 




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2013年03月21日

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トロントの街並み
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教会
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街並み
 
小国町は県外からの移住者を歓迎しています。残念なことに地方の田舎の特徴でもありますが、町を離れる若者は多いらしく人口の中で高齢人口の割合が高く、人口も減少しているようです。若い者が居ない町は活気に乏しくなりますし、経済の発展も望めなくなりますので町の施策で小国町への移住者を迎える態勢を取られているようです。その町の産業の形態により人口の流動化は避けられないものがありますが、国内では都会に出ていく若者が居る一方で、都会の生活より田舎暮らしに魅力を感じて移り住む人々も増えています。私もその一人で小国の自然と人々の人情に魅力を感じて生活を始めました。ただ、日本では村落共同体の名残の身内意識が強すぎるため、外部の人間に対し遮蔽した壁を作るきらいがありました。その中で地方の小都市の小国町が外部の人間を取り込もうとするのはある意味で画期的なことでもあります。他からの異文化を受け入れる事により町は活性化していくはずであり、活性化させるための刺激的な風を外からの人間は運ぶ役割も担っているはずです。純粋すぎる風土は時に息苦しさを感じます。異質な人間を教室や職場の中から排除しようとする学校や会社のいじめ等も、風通しの悪い日本の風土が土壌としてあるのかも知れません。

 長男の留学先であるカナダのトロントに、半年の語学留学を終えるのに合わせて観光をかねて次男と家内の家族三人で行って来ました。カナダという国は大自然が豊であるという以外はそんなにイメージが浮かばない国でした。ホテルに着いて夕食の店に案内された町の人々の様子にびっくりしました。白人を主体に黒人や中国、韓国 東南アジア、中近東、南米、ヨーロッパ等多様な人種の人々により形成されていることが判明しました。イギリス連邦の新しい国家であるために多文化主義を国の基本政策とし、移民政策を採っているのでした。日本のようにほとんど単一民族の国の人間からすれば、街を歩いている人々の顔ぶれの多彩さにまず驚き新鮮さを感じました。外国人であるだけで目立つ日本と違って、すべてが外国人で成り立っているカナダは、多種多様な文化が当然の国でした。外国人であることは全く注目されません。様々な文化が錯綜する多文化の国では、異なる文化を受け入れどこかで折り合いを付けなければ生活をしいていけません。雑多な生活様式を統合しながら国の気風を醸成しているようです。個人の主体性とアメリカのような自由を尊重するスピッリツを国家の形成の土台に据えた国造りをしているようです。

 息子のホームステイ先のペアレントもフイリピンからの6年前からの移住者でした。息子を本当の子供のごとくに扱ってくれて、挨拶に出向いた日にホームパーティを開いて歓迎してくれました。同じアジアのフイリピンのファミリーから手作りのご馳走と歓待を受け、カナダの開放的な生活様式と暖かいもてなしに感銘を深くしました。息子の話し相手も務めてくれていた小学6年生の女の子は、物おじせず明るく活発な娘さんで、カナダ人として成長してる姿が見えていました。20代半ばの娘さんも日本からの来客を苦にすることもなく歓迎してくれました。ホームパーティ等に慣れていない、英語も喋れずむしろ不安を覚えながら出向いた私たちを安心させる気さくなホスピタリティーにお客様をもてなす自然体のあり方を学ばせてもらいました。観光地を見るだけでは決して知ることが出来ない、その国の暮らしの一端と異国の人々の生の生活をかいま見ることが出来た事に海外旅行の大きな収穫を得ました。

 市電のような電車から見るトロントの街並みはどこを見ても異国情緒に溢れていました。カナダ最大の都会であるため都心部は近代的な高層ビルが建ち並んでいましたが、一般的な普通の民家は古風な煉瓦作りでヨーロッパの趣を呈しているのを感じました。イギリスやフランスが統治を争った国であるために自ずとヨーロッパ的な街の作りとなっていました。建物群の中に際だっていたのが空に尖塔を突き出して立つ教会の存在でした。街の至る所に教会が存在しており、雑多な文化の人々を繋ぐ信仰の役割の大きさを感じました。石造りの街並みを歩き、様々な人種の人々の表情や異なる言語の溢れるトロントの街には、新しい国ならではの進取の気概と雑多ならではのたくましい国民性を見る思いがしました。この旅行でもっとも期待をしていたのがカナダの料理でした。日本では味が一律で工夫の施されていないファミレスには呆れていましたが、どの料理も大胆でありながらきちんとした味の工夫がされている料理には感心しました。平凡なナンのようなパンにも、焼いた肉にも、サラダのドレッシングにもスパイスが多用に利かされて味にアクセントがあるのが分かりました。エスニック系の人々の料理の影響を強く受けているようです。日本と違って盛りつけ等は無頓着であり、繊細さには欠ける面もありますが味に関しては雑多な文化の味が反映しており、どの料理も不味いものはありませんでした。むしろ、日本では見られないような個性的な味を出している料理の数々を舌の上に印象づけられました。

 ロイヤルオンタリオ博物館に行きました。寒い中子供連れの家族や団体が行列を作ってチケットを買っているのです。退屈しそうな箱ものには余り興味がなかったのですが、家族の希望で行きました。館内の展示方法も日本と違ってリアリティがあり、また子供達を飽きさせない、アクティビに参加させる仕組みが至る所に見られました。子供達は活き活きと見学しているのではなく参加しているのです。親や大人達も子供を管理するのではなくのびのびとほったらかしのようにしていました。日本では館内は静かに行儀良くという観覧の仕方が主流ですが、まさに館内はいい意味での遊園地のような賑わいなのです。博物館に大挙子供達が押し寄せているのに驚嘆しましたが、その子供達の奔放な振る舞いにこの旅行でもっとも感嘆しました。低迷している日本の教育の姿の原因を見たような気がしたのです。カナダには国を発展させる未来の子供達が育っていることを実感しました。

 長年代々にわたって住み継いできた佐賀の町を出て、農家の長男である私が小国の町に行くことには罪悪感に囚われていました。熊本という隣り県に住むことさえ抵抗があったのに、カナダでは国を遠く離れて祖国を出でて新しい国で生活を一から始めるのです。伝統や歴史を重んじる人間にとってはカナダは浅い文化の国と映るかも知れませんが、最近の伝統ある国々の凋落を見ていると歴史の長さが国の価値を決める時代ではないようです。トロントでの短い滞在を通して異国の人々を受け入れる多文化主義はここ小国での生活の中で参考になりました。外部の人間を許容していくキャパシティの大きな寛大さを、このような地方の小さな町から発信していければと大きな夢を抱かせるカナダのトロントの旅行でした。もし、小国の次に移り住むならトロントというくらいに、世界2位の国土の広さを持つのと同じくらいに異国文化を受け入れる大きな街のキャパに魅力を感じました。
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オンタリオ湖のハバーフロント
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CNNタワー
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ナイアガラ瀑布
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ナイアガラフォール
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ナイアガラの近くのタワーからの瀑布

25年3月21日

 古天神 井崎



 





 
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2013年03月02日

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今、宿は枯れ草色に覆われた冬枯れの景色の中にあります。決して美しい景色ではありません。春や秋の景色に比べれば、むしろどんよりした冬の山の単色の中に沈んでいます。ただ、そうであるからこそ、まだ見えない芽吹き春の想像力がかき立てられます。春となり新緑を迎える対岸の山は、窓一杯に緑の光景が広がります。押し寄せてくるようなきらめく緑に圧倒されそうになります。目の前にはないまだ見られない季節の景色は、想像力の力があれば味わえます。しかし、どんなに素晴らしい景色を眺めていても、長く見ていると飽きてくることがあります。私が心配したのは宿からの景色にいつかは飽きてくるのではなかろうかということです。眺望のいいところからの景色は眺めているその時は感激していても、何回ももしくは長く見ていると次第に見慣れた景色となってしまい最初に見た景色ほどの感激は湧いてきません。たまに訪れたりたまに見るから、新鮮さは持続しているはずです。もちろん季節が違えばいくらか見え方は違うでしょうが慣れてしまうと最初のような印象は薄れていきます。

 人は贅沢ですが倦むことからは逃れられないようです。景色にも音楽にも料理にも、飽きが来ます。流行の変遷は人がものに倦むから生じるのかも知れません。沢山のCDを持っています。聞き始めた頃は飽くことなく何度でも聞いた音楽がいつの頃からか次第に遠ざかってしまいます。たまに取り出して聞いても以前のような感興が起こらないのです。耳が慣れてしまい新鮮味に欠け心が躍らないのです。この宿に来て音楽から遠ざかる事が時々あります。音楽がなくては生きていけないほどの人間だったのですが、音楽を聴かなくても過ごせるのです。音楽に心が向かないゆとりのない時でなく、春から秋の小鳥の囀りの多いときに窓の外の音を聞きだしたらCDの音楽が要らない事もあるのです。CDの音楽は何度も聞くと倦みやすいのですが、小鳥の囀りは飽きが来ないのです。どんなにいい曲であっても、どんなに音楽理論に乗っ取ってアレンジを重ねて作られた曲であっても、絶えず微妙に変化している、そんなに鳴き声が良くもない冬のヒヨドリの囀りの音色にも及ばないようです。

 ご飯は飽きが来ない食べ物です。ご飯には味が付いていません。味が付いていないのに飽きが来ない、味が付いていないからこそ飽きが来ないのです。では、何故何十年と食べ続けて飽きが来ないのでしょう。それは副菜のおかずに変化を付けているからです。米のご飯だけを食べ続けると多分飽きが来るはずです。どんなに高額で珍味で味の複雑な料理でも同じものを食べ続けると飽きは早く来ます。飽きの来ない料理を作り続けることは難しいものです。味の付かないご飯は飽きが来ません。味の付いたおかずは飽きが来ます。ここのところにお客様に飽きさせない料理を提供する工夫の余地があるようです。家庭料理は飽きが来ないといいます。そんなに高価な素材を使ったり、調理に時間を掛けたりしていません。しかし、料理の最後は家庭料理に行き着くのです。だから、たまに食べる料理は凝った料理を食べて美味しいと喜び満足するのですが、落ち着く安らぐ料理は家庭料理なのです。

 しかし、旅行とは非日常であるからこそ楽しみもあり魅力もあるはずです。そこにはなるだけ日常を排除した空間を提供しなくてはなりません。たまに泊まりに行く旅館で家庭料理を出されたのでは、いつも料理を作っている主婦は喜びません。家庭料理がもっとも飽きられない落ち着く料理といっても、旅先では当然家庭の味でない料理が求められます。毎日家で生活を営みながら食べる家庭料理は飽きません。しかし、旅先ではいつもと異なった料理を食べたいのです。その異なった凝った料理は凝った味故に飽きもすぐに来るのです。旅行に出て人は元気をもらいたいのです。また、日々の仕事や生活を抑制しながら送るためには、日常とは異なった空間に身を置く必要があるのです。あくまでも、日常が主であり旅は非日常なのです。だから、早く飽きの来る凝った料理はたまには食べるだけで十分なのです。このことは日常と非日常を交互に繰り返す人生のようなものです。人生に飽きが来ないのもここにあるのです。

 宿からの景色に飽きが来ないのは、季節により光景の色彩が変化するためです。CDの音楽よりもヒヨドリの囀りに飽きが来ないのは、絶えず一定ではない動きのある鳴き方をしているためです。飽きの来ない家庭料理は副菜が毎日変化しているためです。毎日の生活に飽きが来ないためには非日常の空間にたまに身を置かなければなりません。他人から飽きられない人になるためには、時代の変化の音を聞く体内の耳をいつまでも研ぎ澄ませておかなければなりません。若い人でも年を重ねた人でも現状に満足している人には魅力を感じません。何も時代の流行を追うのではありません。流行の先にあるものは忘却でもあるのですから。飽きられないとは絶えず新鮮な変化の風を吹かせることと、想像力を膨らませるどのような工夫をしているかということです。人間の持つどうしようもない性の一つでもある倦むことの克服はそこにあるのです。

 空を裂くヒヨドリの鳴き声は、ついつい現状に安住しそうになる我が身に警鐘を鳴らす鳴き声でもあるのです。
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25年3月2日

古天神 井崎 
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2013年02月20日

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宿の露天風呂の横に蕗のとう 
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霜柱

 この小国に来てから冬の寒さを実感として身に染みています。昨年も雪の降る零下4度の中を散歩していましたがそんなに寒かった覚えがないのです。むしろ初めての真冬の寒さを楽しんでいた節もあります。佐賀では体験できないような気温零下の日々や霜柱の道、一面の雪景色に新鮮な感激を覚えていました。しかし、小国の冬は長いのです。9月の終わり頃には朝晩の気温は下がりはじめます。地元の人が言っていました、小国には夏はほとんど無いよと。その時はまさかそんなはずは無かろうとたかをくくっていましたが、二年目の冬でその言葉を納得させられました。宿の本館に薪ストーブを入れましたがそのストーブの前から離れられないような日々が続いているのです。気温は低い日が続いていますが、暦は確実に進んでいます。旧暦の季節の始まりとなる立春が過ぎ、雪や氷が溶けて雨となり水となる雨水も過ぎました。啓蟄ももうすぐです。春への暦の歩みを聞いただけでも何となく待ち遠しい季節となりますが、まだ小国は真冬の真っ只中の零度前後の気温が続きます。

 雪や氷が溶け出す季節はもう暫く先になりますが、「雨水」という響きを聞いたり字面を見ただけでも何となく冬の心が溶け出すような、言葉の持つ豊かさや季節の到来を予感させる節気の配列に感心します。気温はまだ冬のままなのですが確かに暦の通りに季節は進んでいます。まだ春の訪れは先だろうと期待はしていなかったのですが、宿の敷地に緑のふくらみを発見したのです。霜柱の立つ地面を割って蕗のとうが顔を出していました。辺りを探すともう既にいくつかのふくらみがありました。宿からの景色はまだ冬枯れのままですが、春の訪れは静かに人知れず地面の中で進んでいたのです。「雨水」という独特の言葉の響きに少し元気をもらい、固い地面を割って出た蕗のとうに思わず喜びの笑いが漏れ出ました。陽光溢れる春の日を待つ気持ちがそうさせるのかも知れませんが、冬は嫌いではない季節なのです。零下に下がり寒い日が続くのですが冬にしか見られない景色は魅力でもあるのです。だから、冬が嫌いでもないのに春を待つ心境はどこから来るのでしょうか。夏を待つとか秋を待つとかの心境はあまり聞きませんが、春だけは待ち遠しいとはやはり、溢れる緑と陽光の暖かさを心のどこかでは欲してるのかも知れません。

 冬のどんより曇った日や冬の雨の日は確かに気持ちは重くなります。しかし、私たちの日々の生活は晴れの日ばかりではないのです。むしろ曇ったような日が続くのが日常なのではないでしょうか。心が晴れたり自由気ままに奔放に過ごせる日などほとんど無いのが実状です。仕事や人間関係が思い通りに行かなかったり、思いも寄らない事態が起こったり、体のどこかを病んだり、少しの言葉に傷ついたりと日々苦難の連続なのが現実の生活なのです。雨の日に泊まりに来て下さったお客様に、あいにくの雨でと言葉を掛けましたら、雨も気になりません、雨の日こそ世間が落ち着き雨足の音の味わいも聞けてとおっしゃっていただきました。苦手とする雨も人によっては苦にならない方もおられるのです。寒い冬こそ雪景色の露天の温泉を楽しみたいという方もおられます。寒い冬の楽しみを見つけられたり、雨の日を気にならなかったりと多様な生き方を送られている方々の人生は深いような気がします。天気は人の力では如何ともしがたいように、日々の暮らしの中でも如何ともしようがないことも多々あります。政治や社会の不条理に対する抗いの声は上げ続けなければなりませんが、普通の人の暮らしの中での心の晴れない曇ったような日の過ごし方のヒントが、お客様の言葉の中にあったような気がします。

 「雨水」とは春に近づいた暦の季節です。しかし、それは雪や氷が溶けて雨や水になったことでした。暖かくなったことを喜んだ表現なのです。雨となり水となることが春を待つ喜びの表現とは、雨さえも水さえも冬の終わりには待ち遠しい春を象徴するものだったのです。雨や水のそこにも昔日の人は喜びを味わえる、今よりももっと厳しい冬の寒さがあった事を24節気の暦日は教えてくれていたのでした。


この文は小国の中野さんが編集・発行している同人誌「湧山」に投稿しました。今後も時々投稿させてもらう予定です。

25年2月20日

古天神 井崎秀樹






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2013年02月02日

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宿の近くの雑木林
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散歩道からの夕陽

宿の近くにはクヌギやコナラの雑木林が至る所に見られます。小国ですのでもちろん杉や檜の山がほとんどですが、牧草地の草原と所々の雑木林、また、集落の近くには棚田の様な水田も点在し、そのコントラストが小国の里山の風景を豊にしているようです。葉を落とした雑木林は冬そのものです。この冬の時期だけにしか見られない、雑木の間から空を覗かせながらの整然とした配列の眺めは、その一画に冬の風情を溜め込んだ空間を作り出しています。その他大勢のような代名詞で使われる雑木とひとくくりで呼べない、冬の景色の主役の座を雑木林は務めています。夏になるとクヌギの林も葉が生い茂るだけでなく、山全体が緑に包まれます。そのころは、草も猛烈に繁茂しているので、雑木林に目が留まる事はほとんどありません。春や夏の季節が樹木にとっては本来の姿かも知れませんが、葉を落としたクヌギ林にこそ冬ならではの趣があり、そこに雪が降り積もると心穏やかではおられないくらいの絵画の景色となります。

 桜は一本で他を圧倒したような存在感があります。確かに桜の花が満開となる頃の桜の美しさには他の樹木は及びません。しかし、桜の花の咲いてない、葉桜も終わっての桜は平凡な樹木でしかありません。1年の内のたったの1週間で散る所に人間の生き方の美学に通じるものがあり好まれるのですが、それに比べクヌギやコナラ等は、それ1本では桜のようには注目もされません。ひとまとめに雑木と呼ばれてしまい、その他大勢扱いとなります。しかしながら、クヌギやコナラが葉を落とし集団で整然と並んでいる雑木林は、冬の景色の風情を際だたせています。私たちは胸のどこかでは桜の様な樹木の存在を目指しているところがあります。存在が目立つし、注目も集まりますので当然ですが、その様な人生を送る事が出来る人はほんの一部でしかありません。私を含めて大半の人はその他大勢の、名も残すことなく一生を終える雑木のような人生なのです。大々的に知られなくても普通の人は、暮らしの範囲の中で互いを認め合える人や必要とされる存在であれば生きていけるのです。

 花の美しさが桜の魅力のすべてです。材としての利用価値はチップや高級な建具としては使われていますが、クヌギの方が優れています。椎茸の原木としては無くてはならないものですし、宿の薪ストーブの燃料として部屋だけでなく体の芯までクヌギの炎は暖めます。そしてクヌギはカブト虫やクワガタの昆虫も樹液を出して集めます。桜のような華のある樹木ではないですけれども、実用的には大いに活躍しているのがクヌギ等の雑木なのです。雑草という草の名は無いと、どの草にも名前がありますよと、産山の野草園で教えられました。確かに私には雑草にしか見えない草々も草の名前を知らないだけで、個々の草には名前が付いているのでした。花を付けて観賞用として飾られたり、薬として有用な植物以外はひとまとめとに邪魔な植物として雑草と片づけられます。山野草は平地で見るような華々しい育ちをしていませんが、どこかひっそりと可憐な咲き方をしていて女将も私も好きな植物の一つです。野草園のオーナは、歩きながらどの草であろうが手に取られて名前を呼ばれたのには驚きました。普段なら足で踏みつけても何とも思わない雑草の前で足を下ろすのをためらわれたのを覚えています。園のオーナーは、売れる植物だけを大事にされるのではなく、ほとんど人々が関心を示さない雑草と呼ばれる草々にも配慮をされている姿勢に敬意と感心を抱きました。

 時折山道を走っていますと山の奥から木を伐採する音が聞こえたり、山の下草刈りをされている方に出会います。山の仕事は数人でされる時もありますが、そのほとんどは一人でされているようです。山の奥に入ったら人は誰も居ません。むしろ獣のテリトリーの中なのです。集団の中で集団を相手に仕事をしてきた人間にとって、上司や同僚や後輩が居て摩擦や支援という人間同士のぶつかり合いの職場で仕事を経験した者からすれば、山の中で誰とも口を聞かずにする山の仕事がどういう心情で働くことか想像できません。職場での他の人間とのぶつかりも互いの人間としての存在をどこかで確かめていたのかも知れません。また、集団の職場では他人から認められることが励みになることもあります。しかし、山の中では働く姿を評価したりする人は誰も居ません。人とのぶつかりも無い代わりに相談をしたり成就を喜ぶ相手も居ない孤独の仕事なのです。植物や樹木や鳥や風と会話を交わさなくては、自然の息吹に敏感でなければ山の中での仕事は重労働の寂しい仕事になるはずです。山の仕事の評価は目の前の仕事にあるのではなく、杉山の下草を刈り枝を落とす作業をして成長した樹木の材の出来が決めるのかも知れません。
 
 この宿も余り人に知られず本当にひっそりと佇んでいます。おかげで、樹木や植物の季節毎の変化を感じることが出来、鳥たちの鳴き声には励まされます。宿に来て頂くお客様も人に知られていない喧噪さのない宿だからとよけいに喜んでいただけます。夏も山々の先に夕陽は沈んでいたはずですが、晩秋となり葉を落とした雑木林が山の眺めの中から抜きん出て来ました。夕陽を背に紅いシルエットを映し出す雑木林の佇まいには息を飲みました。そこには葉を落とした雑木林が必要なのです。桜の花見のように人を多く寄せ付ける樹木ではないのですが、1本の樹木に華があるわけではないのですが、整然と葉を落として並んでいる雑木林の姿は冬という季節の中でこそ、その存在の確かさを静かに放っています。雑木や雑草は誰からも注目されたり関心を集めたりする植物ではありませんが、季節によって時には人によって関心を引き立てます。人知れず働いたり、人知れず咲く花や樹木には惜しみない応援をしていくような宿としてあることを、冬の雑木林から教えられました。

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菊池まで薪を買いに行く途中の大観峰からの阿蘇山
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靄の中に浮かぶ阿蘇五岳
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同じ大観峰からの久住連山
 
この3日の朝はなんと、まず小国で携帯をしていて警察のお世話になりましたが、阿蘇山と久住連山を同時に眺められました。

25年2月2日
古天神 井崎

 
 

 





 
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2012年12月26日

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24年12月31日の月
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12月27日の冬の月
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宿の入り口にある杉の上の月
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師走の喧噪の届かない散歩道からの夕陽
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葉を落としたクヌギの雑木林
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近くの寺尾野橋からの夕陽


外気温が零下まで下がる日が続いています。草は枯れ樹木は葉を落とし寒風にさらされています。まだ初冬なのに、今年の冬はいきなり厳寒の冬となりました。クリスマスの賑わいも師走の慌ただしさもこの山の中では隔絶されて、静かな暮らしのままの年末を迎えています。佐賀にいるときの師走の慌ただしさが何だったのか、たぶんに街全体やテレビ等が醸し出す商戦に体が反応して心までが年の瀬に浮かれて躍っていたのかもしれません。それはそれで何となく楽しくもあり、めでたい正月を迎える前の時節の喧噪としてアルバムの中の写真のように胸に刻まれています。

 まだスーパーマーケット少なかった30年代に、正月のおせちの食材を買いに母に連れられて行った先々の店の活気ある雰囲気が師走の街の景色だったのです。幟ははためき威勢のいい売り子さんの声、買い物をする女性達の顔も輝き、街も人も歳末大売り出し一色の賑わいに染まっていたのです。母は一人でおせちを何種類も黙々と作っていました。1年に一度のごちそうに期待を膨らませながらも、母は紅白も見ずに台所で仕事をしていたことを不思議な気持ちで見ていたことを覚えています。しかし、年末のおせちを作ってみて分かりました。家族が多かった頃のおせち作りには、下準備から素材毎の出汁を変えて大変に手がかかるため、国民の大半が見ていた紅白も見ずにおせち作りにかかりっきりでしなくてはならなかったのです。昆布のだしを取る鍋がストーブの上にはずっと乗っていました。その当時は何で昆布の鍋があるのかと思っていましたが、おせちを作ってみると母がしていたことの意味が分かりました。大人になることは大人達がしていた代々の習わしを引き継いでやっと大人の世界に入れるようです。

 それが1日の元旦となると、街全体が静まりかえり何となく厳かな正月になるのです。家の外の臼の上に飾ってある正月様にお参りをして、家の中の神様や正月飾りの鏡餅にお参りをして、おとそを頂き祖父の新年の挨拶が始まります。家庭の中にも威厳がまだ残っており家族を支える大きな柱が残っていた時代であったようです。ハレとヶの生活の区分があり、世の中にも正月だけは街の中にも厳粛さが漂い、1年の節目としての新年の大きな意味があったようです。この正月らしさが崩れていったのは、正月にも宣伝飛行機を飛ばして元日から店を開けて営業し出すスーパーが現れて街の様相が壊れていきました。やっと心穏やかにゆっくり出来て、1年の始まりを心引き締めて迎える元日の静かな1日が平常と変わらぬ日になってしまいました。去年今年の節目が明確にあってこそ、明日への希望も胸の中に秘めることが出来るものです。日本の正月を存在意義の薄れた単なる儀式ではなく、個人や家族や国の行く末を考える節目の日として捉え直すことも、個人の尊厳が軽んじられ、家族の威厳がなくなり、国の大きな柱が揺らぎだし、国の品格が落ちだした今の日本では必要ではないでしょうか。

 零下に下がった外気温の空気は肌を突き刺してきます。政治の世界ではまた昔の政権が戻ってきて、勇ましい事を訴える政治家に人気が集まり出しました。その勇ましさの裏には犠牲になる若い青年達が出てくるかもしれないのにです。杉の木の上には何事もなかったかのように月があがっています。寒い厳寒の夜にかかわらず、悠然と月は輝いています。人間は成長しているのか発展しているのか、それとも愚かになっているのか分かりません。便利な機器を手にして昔より進歩したと喜んでいるのも確かで、その恩恵も受けてもいるのですが、その反面心のどこかではこれからについての不安を内包させているのも事実です。誰かが、今の社会は成熟社会と言っていました。生活のインフラは整い物も豊になり、より贅沢を求めなければ不自由ない生活が出来ています。しかしながら、成熟の度合いを計る基準が分からないのに、見た目の豊かさだけで成熟社会と規定されても何か釈然としません。

 成熟社会の割には街を行く人々の目に輝きがないような気がします。母がおせちを作っていた時代の人々の目や街には活気が漲り輝きもあったような気もするのです。あのころは物もなくインフラも整っていなかったのです。人間は物の充足が最優先であることは当然です。国も人々も物を充足させるために一丸となりますが、その後の設計をしていく事は苦手なようです。物の充足を否定して心の豊かさをなどと言うつもりはありません。しかしながら、物の充足の後の国のあり方や設計については政治家任せにせず、私たちも何らかの形で関わっていかなければなりません。政治家のあまりにも節度のない哀れな姿は、あの様にしか育てなかった私たちにも残念ながら責任があるのです。おせちを黙々と作っていた時代には国民に何かの希望が見えていたのです。ある程度の希望を達成したこれからが、本当の国としてのあり方を考える時期でもあるのです。もちろんのこと東北の被災地ではまだインフラも整わず仮設住まいの方も多くおられるので、インフラの復旧や街の復興が最優先であることは言うまでもありません。

 厳寒の夜の空には悠然と冬の月が輝いています。厳寒の寒さの中でこそ月は仄かな輝きを放っています。年末の慌ただしさも、暮れていく1年の惜別の情にも浸らず、厳寒の夜の月は気高い輝きを見せています。進むべき社会のあり方や生活の目標を見失った今の私たちが指標とすべき姿を、冬の月は孤高の輝きを放ちながら示しているのかも知れません。


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古天神橋からの夕陽
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北里の建設会社から購入している薪の山
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薪ストーブの煙
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宿の看板の後ろに残る雪
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24年12月26日
古天神 井崎

 

 

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2012年11月20日

 やっと大好きな富有柿が出回りました。甘みの増した富有柿は11月の中旬にならないと出回りません。秋の季節も遅くなり寒さに当たらないと甘みが増さないためです。夏の終わり頃から様々な果物が店頭に並びます。秋が始まった頃には葡萄も梨も終わりに近づき、秋の始まりにはもうそれらの果物の旬は終わります。秋を代表する果物はリンゴと柿くらいしか見あたりません。季節の先取りの走りを楽しむ粋や通の食生活が、季節の果物や野菜の本来の実りの時期とはずれたものにしているようです。冬に向かって暮れていく季節に柿の肌は色合いを濃くしていきます。夕暮れに浮かぶ南西の三日月が、辺りが暗くなると光を増していくように、柿も晩秋になるにつれて味も色合いも深めます。季節の深まりと共に実っていく果物や野菜には本来食物が持つ命の力が備わっているはずです。しかしながら、植物の本来の実りの季節を変えてでも食べたい人間の目先の欲望は、商品としての価値を持つと同時に地球の資源にも相当の負担をかけているのも事実です。枯れていく晩秋の柿の木の柿はその色と存在を野に放っています。

 人間は分かっていても絶えず刺激がないと喪失感に囚われる、満足に飽き足らない足を知らない生き者のようです。衣食に足りるとどこまでも贅沢を求め、その贅沢が常態化して当たり前になると際限なく次の刺激的な贅沢を求めるのが人間の欲望の業かも知れません。多分人間の欲望はどこまでいっても満たされないはずです。それが業なのです。果たしてこの地球は人間の果てしなく続く欲望にどこまで付き合うのか、どこまで持ちこたえられるのか、一度立ち止まって考えなければならないはずです。現代の人間が今の勢いで消費し尽くしてこれから続く子孫の分まで資源を提供できるのか、現代人だけで地球の持つ様々な資源を消費して汚染していくのは身勝手なはずです。この先の遠い未来ではなく子供達の将来を考えても、10年先のビジョンさえ描かない浅はかな政治家に任せるのではなく私たちの日常の中で足を知る季節に合った生活を取り戻す必要があります。

 この小国の地に来て忘れかけていた本来の季節の巡りを取り戻したような気がします。今年の秋は、秋の紅葉の美しさを満喫しました。赤や黄に染まる紅葉が美しいのは当然ですが、色が日毎に移り変わる山々や木々のその変化の過程を見ることが出来ました。今はほとんどが枯れ葉か葉を落とした木々しか見られませんが、紅葉の盛りに至る葉の色合いの変化まで見られたのです。昨年も秋を通り紅葉も見ていたはずですが全く覚えが無いのです。昨年は宿の立ち上げとお客様のおもてなしに全精力を注いでいたため、周りを見るゆとりも無かったようです。秋は茸や野菜は多いのですが、里芋もおいしい物が手に入ります。時松さんの所の野菜はトマトを始め何でもおいしいのですが里芋も味に深みがあります。

 また宿の掃除をして頂いていた地元の方が下さった里芋が思い出の野菜となりました。その方は、春に地熱の蒸気で蒸した筍の地獄蒸しを届けて頂き、お客様にも好評を頂いておりました。また、私の大好きな採れたての新じゃがも届けてくださりました。宿の掃除が済んで帰り際に、慣れない女将に女将さん頑張ってと声を掛けて下さる心優しい方だったのです。最近は採れた里芋を持ってきて頂き早速蒸かして柚子味噌で食べていたのですが、最近姿を見ずにどうされたかと思っていたら、突然52歳の若さで亡くなってしまわれたのです。人との関わりをいきなり断ち切られることは、その人が誰であっても胸の中に痛みが走ります。宿に予約が入れば掃除にいつも来て頂くはずの方が、季節の産物を笑顔で届けられていた方が、急に私たちの前からいなくなられるのは、秋の枯れ草の上を冷たい風が走り抜けたような気になりました。来年も筍の地獄蒸しの季節を迎えると疑わないので、その方にはお別れの挨拶も産物のお礼の言葉も十分に尽くさぬままに逝ってしまわれたのです。まだ、里芋の季節は終わっていないのにです。

 秋が深まり植物たちは冬を越す休眠の準備にかかりました。それはあくまでも春となり新しい息吹をよみがえらせる次につながる周期の巡りに過ぎないのです。秋は野原を枯れ草色に染め上げてしまいますが、命の種は潜ませているのです。厳寒の寒さに命をつないでいくためには、温かい土の中で暫くは休むしかないのです。柿は冬を越すために甘みを体内に蓄えようとするために甘くなるのです。秋の深まりと共に春を迎える準備をすることなく人生を閉じることは、晩秋の寂しさを一層もの哀しくするものでした。しっとり落ち着いた色を見せる晩秋は人生の最後の舞台にふさわしすぎる季節でもあるようです。枯れ草色の晩秋が人生の最後の舞台ではなく、春を迎える準備の季節としてあるためには、命の種をどこかに宿しつつ冬を迎えねばならないのです。

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浮羽市の「種の隣」の柿
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オーナがこだわって育てる柿の味は秀逸
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「種の隣」はオーガニックカフェー 雑貨 和菓子 日本の伝統文化を守るための着物の普及にも力を注がれています
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杖立の松原湖の晩秋
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湖面は晩秋の樹木を映しています
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24年11月20日
古天神 井崎

  

 
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2012年10月19日

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  コナラの枝の間に三日月

小国の町に至る山道の道沿いには様々な花が咲き誇っています。もう彼岸花は枯れてしまいましたが、まだ赤や黄や白のコスモスの花は咲き並んでいます。自分の庭だけでなく他人の通る道沿いにまで花々を植えて、普通に配慮をしてある気遣いに集落の人々の温かい心意気を感じています。自分の道以外は公的な機関に任せている都会の人とは違う本来の生活のあり方がある気がします。この地での景色も見慣れたものになっているのですが、小国の町まで車を走らせながら、もしくは散歩で宿の近くを歩きながら佐賀とは違うこの風景はどこから来るのかと、佐賀では味わえない山の景色や車の前の景色が気になっていました。

 佐賀では街の景色が現実の生活の一部でしかないのです。長年見慣れて来たというのもありますが、この宿の標高が約700メートル近くあり小国でも400メートル位あります。この標高差を行き来して見る景色は、時に向こうの山々の頂や稜線と同じ所、もしくは山々を眼下にしていたのです。標高の高い所での生活はそういう意識にならずとも普通に俯瞰的な鳥瞰的な位置なのです。毎日の日常の生活は集落では営まれているのですが、やはり現実の生活の時計の進み具合は都会のようには慌ただしくないのです。空に近いところで生活しているために、目の前で見ている景色に現実感がない理由が分かりました。佐賀では鳥たちにしか見られない景色をここでは普通に見ながら、空の上に漂う浮遊感のような感覚で生活していたのです。

 小国での両神社の秋祭りを初めて見学した後に産山の野草園に行って来ました。その道すがら阿蘇山が見えるのです。この秋の季節は空気が一層澄んできて阿蘇山が杵島 烏帽子 中 高 根子岳と連なって見られます。牧草地の遠くの雄大な阿蘇山はやはり風格が違うのです。他の山では余り見られない山全体の姿をいろんな場所からいろんな姿で見せています。時に雲や靄がかかって見えなかったりするのですが、阿蘇山全体が涅槃像のように横たわっている姿は何度見ても感激を通り越してありがたさを感じるのです。あの山の姿に出会えると元気が湧いてくるのです。雄大なカルデラにそびえ立つ阿蘇山の景色はこれまでにも数多の人々に感動を与え続けて来て、観光地としては何も新しくもないのですが太古の昔から人々の視線に関係なくどっかりと横たわっている姿が小さな存在の人間に元気をもたらしてくれるのかも知れません。

 阿蘇山を背景にススキがすくっと立っています。風に穂先を揺らしていますが立ち姿は毅然としています。群れて立つススキの間から阿蘇山が見え隠れしています。阿蘇山が普段は主役を務めていますが、この時期になるといつもは脇役で秋の風物としか見られないススキも、阿蘇山が引き立て役となり秋の主役としての座を努めているのです。季節が変われば脇役にもその座を譲る阿蘇山の包容力。私たちは果たして人生の中で何度の主役を務めるのでしょうか。主役の座が回ってこないうちに舞台から降りることもあるでしょう。脇役のまま、もしくは端役のまま終わるかも知れません。場面と状況が違えばススキのように誰にでも主役の座は回ってくるはずです。しかし、端役や脇役にこそ生き甲斐を見いだしている人も多いようです。そういう人たちには味のある深みのある人生を送っている人もいます。脇役や端役にこそ人生の妙がある、阿蘇山を脇役に置きすくっと毅然と立つススキこそ秋には無くてはならない景色の本当の主役かも知れません。

19日の今宵は南西の方角に三日月があがっています。三日月は宵の空にその存在を次第に際だたせています。夕日が沈むと三日月の明かりと、弧を描くその月の姿には目を引かれます。 ススキも暗がりの中に見えなくなり、夜の主役の登場です。夜の空に描かれる眉引きの月の姿の三日月だから主役になれるのです。コナラの枝を通して浮かぶ三日月を見ながら、望月以外の月の姿は脇役でしかない事が多いのですが、今日のぎりぎりまで細めた三日月の役振りも見事です。場面と状況が違えば誰でも主役になれますし、脇役 端役の妙味も尽きないものがあります。古天神もまだ端役の努めもしていません小さな宿ですが、脇役 端役なりの味を出せるよう女将と共に精進していきます。阿蘇山を従えるススキや夜空の三日月の存在を大きな励みとしつつ・・・

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   薄暮に浮かぶ三日月

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   宿の近くの寺尾野橋からの夕日

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   赤牛の向こうに阿蘇山

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   ススキの向こうに阿蘇山

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平成24年10月19日
古天神 井崎

 

 







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2012年09月10日

 宿の周りもいつの間にか夏の残像となっています。太陽の日射しも勢いがなくなり、鳴いていたヒグラシに代わり草むらからは虫たちの鳴き声が聞こえ出しました。夏でも朝夕は涼しい風が吹くこの高原では、もう既に布団を出しています。この夏は雨に始まりました。梅雨の終わりに大雨となり阿蘇の各地に甚大な被害をもたらしました。先日久しぶりに一宮までなじみのパン屋さんに顔を出しましたが、車を駄目にし床上まで浸水したが営業を2週間休んだ後再開したと話されました。豪雨の不安や片づけ等に大変な思いをされたはずですが、前向きに仕事をされている元気な姿に接して、困難に立ち向かう人の強さを感じました。帰りの道から見える外輪山の山肌も、所々緑が削られ痛々しくむき出しの斜面が見えていました。道の途中にあった骨董屋さんが跡形もなく消えていました。山崩れの土砂と一緒に流されたそうです。見慣れていたものが無くなっていた道の景色に、7月12日の夜のすさまじかった雨の音がよみがえってきました。

 この夏は慌ただしく過ぎました。大雨の影響もありお客様は少なかったのですが、夏が瞬く間に過ぎてしまいました。腰を落ち着けて宿にとどまることが出来ず、佐賀の地と行ったり来たりの生活をしていました。私の年代になると、親の介護も生活の一部となります。家庭でも自分が年を取るのと同時に親も老境に入り、世代の交代が徐々に始まっていました。仕事に没頭し、自分のことに没頭し、子育てに没頭していた時期に、親も年を重ねていたのです。その時、親の思い出は多くは語られないのです。86年間の父親の人生をどんな言葉で表すか、どんな言葉で送ればいいのか迷いました。ほんの数行の言葉では語り尽くせない人生があったのです。その上に私たちの生活が在ったのです。しかし、存命中はなかなか複雑な思いが邪魔をして、親としての父親とその人生に真正面から向き合えなかったのも事実です。

 父の遺影を見据えながら、確かな意思の存在と迫力に圧倒されました。父は自分のすべてを込めた遺影を前もって準備していたのです。遺影を撮影した70代以降は本当の余生が始まっていたのかも知れません。父に向けて語った言葉は迷った末に「土」と共に生きて来た人生で在ったとしました。米を作り、花を育て、鶏を飼い、土にまみれて生きてきた人生だったのです。田圃を耕していた父の若い頃の姿が私の父親の原点だったのです。まだ開発されていなかった佐賀駅の北側の、広々と広がる田圃を黙々と耕耘機を使い耕していた姿が、何かを語る言葉よりも印象深く刻まれているのです。親が子に伝えることは、偉そうな言葉ではないのです。やはり、生き様でしか子には伝えられない事を学びました。多くを語らずとも深く伝えることが在ることも知りました。苦労の多い人生であったかも知れませんが、孫の読んだ弔辞の中に、人間の優しさと暖かさが溢れていたとあり、孫を始め多くの方々に慕われていた父の姿が浮かび上がってきました。
 
 夏を感じるいとまもなく過ぎ去っていった夏。佐賀から小国へ帰る7月の大分道で夏の始まりを示す大きな入道雲がわいていました。若い頃は、夏の入道雲に向かってバイクを走らせていました。雲の向こうの彼方には未来が待っていたのです。未来の何かをつかみたくて、走っていたのですが、なかなか何かには到達できません。到達できなくても、未来への何かを目指す姿が人生のような気がします。以前のようなたぎるような体では走れませんが、お客様への温かいおもてなしは、今以上に努めていくつもりでいます。

 蝉の鳴き声に代わり、夕暮れと共に秋の気配を漂わせる虫の声が辺り一面から聞こえています。夏の日射は秋の静寂の風に代わりました。色づく秋の装いの季節が近づきつつあります。コスモスの風に揺れる秋の始まりは、人生の装いを深く考えさせる季節の始まりでもあります。


24年9月10日
古天神 井崎



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2012年07月26日

 この宿に来てというか、この高原の地に来て生活感が変わりつつあります。もちろん、毎日の勤めの生活から全く仕事が変わったのですから当然のことでしょうが、次第に現実の生活から遠ざかった様な、遊離してしまったような生活様式になりつつあります。毎日の仕事勤めをされている方には申し訳ないのですが、仕事上から派生していた、仕事以外の人間関係等の諸々の煩わしさはありません。宿に関する諸々の煩わしさは想定以上に多いのですが、何をやるにも課題は付き物ですし、課題も宿の経営の一つでありますし、課題に取り組むこともやりがいの一つととらえています。課題の解決に向けて方策をいろいろ立てるのも宿経営の醍醐味でありますし、課題の先にあるものがなかなか見えない不安定感をも楽しめるとまではいきませんが、そのゆとりは失いたくはありません。

 勤め人時代も多くの困難や苦労もありました。困難には誰もが直面するのですが、組織が緩衝地となって受け止めたり、組織と自己との狭間に立ったり、組織が優先されたりとどうしても組織の一員として働いているときにはその恩恵と束縛の両面がありました。ただ教師の仕事は、クラスの担任として教科の担当としては、自己のアイデアを十分出せる面があり私には適職ではありました。組織にどっぷりと浸かれない人間だったから、そのため組織の人間からは厭われていました。組織の一員としてしか動けない人は、大津のいじめの事件の様な情けない対応しか出来ないはずです。生徒よりも組織を優先させている典型的な事例ですので。崇高な理念的を掲げるハードな面の教育は組織が行うのですが、個々の一人の生徒の直面する課題に取り組むのは個々の教師の熱い教育力なのです。教育力を磨かずに組織に依存してしまっている教師に出会った課題を持つ生徒は不幸でしかありません。利益を最優先しなければならない民間の会社ではこの論理は通用しないのは分かりますが、教育の現場ではあくまでも未来の可能性を秘めた生徒を育むのが最優先されなければなりません。教師の教育力さえ摘もうと企てている関西のなんとかの会などもってのほかです。

 宿の経営では後ろ盾となるものは何もありません。組織の恩恵も束縛もない代わりに、個々の課題に真っ正面から直面するしかないのです。肩書きもないので、権威に寄りかからなくて素の自己に頼るしかありません。確かに、教育の現場では肩書きの権威に寄りかかっていた人物を多く見かけていました。組織から離れてみますと、一人としての個性や特徴が試練に立たされます。肩書きに依存していた人が哀れな人物に見えて来ますし、組織を離脱して輝いてくる人物もおられるのです。生徒の困難や課題に直面し、共に解決の道を目指せるのは、この宿の経営に似たようなものがあります。権威や組織はなんの助けにもならないし、直接の困難や課題を自己の力で解決できる所は、教師の教育力に通じるものがあります。生徒の喜びを糧として仕事をやって来ましたし、お客様の喜びをなによりの充足感として宿の経営も行っていきます。

 この地に来て生活様式が変わりましたと書きましたが、その変化の要因の一つは音にあるようです。佐賀と違って生活感の音はほとんど聞こえてきません。そのため、孤立感に陥ることもありますが、安らぎの音の方が溢れているのです。だから、都会の喧噪の中でしか暮らせない人には、山の中での生活は不向きかも知れません。春になり最も早く聞こえだしたのがもちろんウグイスです。それから、ホトトギスも鳴いています。初夏になり、待ち望んでいたカッコウが鳴きがしたときには、高原の生活の素晴らしさを実感出来ました。カッコウはウグイス等とは違って同じ所にとどまりません。あちこちに動き回って鳴いています。普段は遠くで鳴く事が多いのですが、たまに宿の近くまで来て鳴くこともあります。お泊まりになられて聞かれたお客様は幸運だったはずです。瀬音は絶えず聞こえております。先日の大雨の際の激流は轟音となってとどろいていました。

 やっと梅雨も終わりに近づいた頃の夕方から聞こえだしたのです。佐賀では日中のクマゼミの鳴き声はうるさくしか聞こえませんでした。宿では日中のアブラゼミの夏らしい鳴き声を期待していたのですが、日中の蝉の音は余り聞こえてきません。その代わり、夕方の6時以降になりますと決まってヒグラシがもの悲しい鳴き声を一斉に立てるのです。夏の夕暮れはゆっくりと長く続きます。ヒグラシの鳴き声は長い夕暮れの余韻をかき立てます。宿のすべてが寂寥感に浸されて、まもなく夜の闇が下ろされます。そして空には瞬く星空が広がります。高原では夏の方が星の輝きがより多く見えます。もとより空気が澄んでいるからです。

 自然と一体になった生活をしていきますと、現実の生活から遠ざかっていくのも仕方ありませんし、生活様式が変わるのも自然の流れかも知れません。しかしながら、お客様は旅行や旅に求められているものはなるだけ現実感のない安息の空間ではないでしょうか。浴衣の女性達がそぞろ歩きする旅館街も風情があるので好きですが、現実離れした宿の空間に暫しの間お泊まり頂き、お疲れになっている心身を露天風呂とお料理でおもてなしさせて頂く事が出来るのが、宿の持つ癒し力の一つではないでしょうか。そこには、夏の宿の風物として、ヒグラシとカッコウは欠かせないものです。


 7月 25日
 古天神 井崎



 










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2012年07月12日

 昨夜は凄い雨でした。たたきつけるような雨で心配しておりました、熊本 阿蘇 大分の一部では被害も出ているようでお見舞い申し上げます。

 宿の横を流れている川も激流となり轟音を響かせて流れましたが、幸い宿を迂回して流れておりますので全く影響はありませんでした。山崩れの心配もありませんし、今回のような大雨でも宿は安全であることが分かり安心しました。

 皆様から電話やメールで大丈夫かとご心配頂きましたが、宿の方も私たちも無事であります、ありがとうございました。

    古天神  井崎
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2012年06月17日

 小国も梅雨の季節となりました。この地では田植えは早くも5月に済んでおり、もう早苗が生長しつつあります。棚田のようなこの地で整然と並ぶ早苗の緑に、煙ったような雨が降り注いでおります。佐賀の地では6月が田植えの時期でした。両親が農業をやっていた30年代の頃は、この時期になると田植えの手伝いの女性達が数人泊まりで来ていました。この6月は農家にとってはもっとも忙しい時期だったのです。機械で植える現在と違い、あのころは広い田圃をすべて手植えで行っていたのです。朝早くから一日中腰をかがめての田植えの労働には子供心にも大変な仕事と思えていました。

 江戸時代の昔から、毎年毎年同じ作業が延々と続いていたのです。農家は、肉体的な重労働から解放されず長きにわたり腰をかがめていたのです。母は朝早くから田植えの女性達の朝食を作り家族の食事も作り、自分も田圃に出ていたのです。まだスーパーとかない時代に、いつ買い物に出ていつ料理をしていたのか、どういう生活をしていれば、成り立っていたのか聞いておくべきだったと悔やまれます。今は宿の料理を日田や小国の町に買い出しに出かけて作っていますが、あの重労働の中で作っていた母の料理にはとてもかないません。

 その田植えを人の手でやっていた頃の集落には蛍が手に取るように光っていました。当時の面影がすっかりなくなった、佐賀駅の北側の今の佐賀学園の周囲は田圃が広がり、川も流れ草むらの中で多くの蛍が光っていました。小さな集落のあちこちで蛍は飛び交っていました。初夏の風物として集落の子供達ははしゃぎまわって蛍を追って、捕まえては蚊帳の中で光らせていました。親の重労働をよそにのんきに遊び回っていた頃、田植えが手植えから解放され、農家の仕事が少し楽になりました。その代わり多く飛び交っていた蛍達を次第に見ることが出来なくなっていったのです。時代のすすみは人の仕事を楽にした代わりに、失うものもありました。このことが私たちは世の中の近代化と考え当然のことと受け止めていました。蛍達がいなくなるどころか、川は工場の廃液で汚れヘドロが溜まり悪臭を放ち、もちろんのこと魚たちもすべていなくなっていました。

 いなくなっていた蛍が環境問題の高まりとともに、あちこちで見られ出しました。汚れていた川に清流が戻り、魚も戻りましたが、一度消えた蛍は戻らず、佐賀で蛍を見る場合は祇園川の流れている小城まで見に行っていました。この宿で初めての梅雨を過ごすこととなり、蛍の名所が多くあるので期待はしていました。この宿の近くで蛍達が数多く飛んでるというもっと標高の高いところに住んでおられる近所の方の情報により、案内してもらって見に行きました。車の助手席の女将が歓声を上げました。私はまだ車の中で見ることが出来ませんが、降り立ったところ目を疑うばかりの蛍の乱舞なのです。
地元の人でも余り教えない蛍の名所が宿の近くにあったのです。

 蛍は淡い光を静かに明滅させています。初夏の夜に人々の胸の奥に様々なものを刻む明滅であり、大人の胸から様々なものをよみがえらせる明滅でもあります。闇夜に蛍の飛ぶ空間だけは無音の世界が現出されています。小川の流れは蛍の飛ぶ場所には必ず流れています。しかし、流れの音が聞こえないのです。無音で飛ぶ蛍の明滅に見とれてしまい、小川の流れが消えてしまい、蛍の明滅の醸し出す幽玄の世界に迷い込んでしまうためです。蛍は静かで無音のまま飛んでいます。静かな蛍ではありますが、その存在は決して小さくはありません。この梅雨の時期の季節を静かに浮かび上がらせる淡い光には、人の胸に明るさをともす大きな力が蛍には備わっているようです。

 宿には蛍は居ないと決めつけていました。しかしながら、そばを小川が流れているのでもしかしたらと、蛍見学の帰りに橋の上から真っ暗闇の宿を見下ろしたところ、数点の灯りが見えるのです。慌てるように宿におりて露天の近くの暗がりを女将と見に行くと、なんと蛍が数匹飛んでいるのです。本館のテラスからも蛍の灯りを見ることが出来たのです。まだ、数匹の蛍ですが、宿でも見られたことに女将と大感激をしました。淡い光の蛍ですが大きな存在感があるように、この宿もまだまだ淡い存在ですが、梅雨の曇り空に淡く浮かび上がるような宿を目指していきたいものです。

  24年6月18日

   古天神 井崎

 

  




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2012年05月21日

 芽吹きの春も過ぎ小国の野山も、厨房から見える宿の山も日増しに緑の色を濃くしています。しかし春とはいえ肌寒い日が続いており、近くのそば屋さんでは薪ストーブが焚かれていました。佐賀では5月といえばもうほとんど初夏に近い日差しに半袖でも過ごせますが、朝夕はいまだストーブも必要な小国の気温に、初夏の到来の遅さをやきもきしています。厳寒の頃の寒さに比べようがないくらいに温かくはなっているのですが、春の体に慣れた体は朝夕の寒暖の差に置いてきぼりを食っています。標高の高い小国ではまだ炬燵を残している家庭もあるようなので、一日の内に春と冬が入り交じるこの地の気候に慣れていくしかないようです。とはいえ、日中はウグイスがあちこちで鳴き多くの小鳥類も鳴き交わしています。宿の工事中は小鳥類も警戒して遠ざかっていたようですが、静かなたたずまいの宿が森の中にとけ込んでいくにしたがって、小鳥類が戻ってきたのか、もしくは宿と私たちが森に受け入れられたのか小鳥のさえずりの種類も確実に増えてきているようです。

 宿での1年の季節の巡りにはわくわくとした多くの新鮮な発見と喜びがあります。秋には茸類の多さに山里の生活を実感しましたし、味わったことのない真冬の空気の透明感と雪景色の美しさには心の中が洗われ、心の芯がほの温かくなっていくのを感じました。厳しかった冬が引いていき春の訪れを待ちわびる北国の人の心境を実感で分かりました。食材にもたくさん使いましたが山菜の種類の多さと、料理法の多様さにも山里の食生活の豊かさを感じました。街のスーパーでは手軽に調理できる加工した食品が並んでいるのですが、この地では素材を本来の調理で食材を生かした料理がされているようです。佐賀の山育ちの母が作っていた葉山葵の醤油漬けを作りました。辛い中に独特の風味が残り、口の中に残っていた母の味覚の一つでした。その葉山葵の醤油漬けを私が作ろうとは思ってもいなかったので、作りながら、宿を始めていなかったら、またこの山里の小国の地に住むようにならなかったらとても作らなかったであろうと、葉山葵のほの辛さと人生の不思議な展開を口の中でにしみじみと味わっていました。

 最近子供連れのお客様が泊まりに来られるようになりました。我が家の子供達も大学生となりそれぞれの地でボランティアに勉強に頑張っているようですが、親子のほのぼのとした触れ合いに接する機会があり、子供の成長の早さと子育ての大変だった時期を思い出しました。お客様の子供にどれだけ印象を残せたか自信はないのですが、1泊の宿泊で何らかの宿の思い出を残していただけたらと女将と話し合っていました。大人向きの宿の設えにしているもので、子供にとっては退屈な宿だったかも知れませんが、一組目の男の子供さんは夕食のコーンスープが気に入って頂き3杯もお代わりされ、二組目の女の子供さんは朝のデザートのスイカが気に入って頂きました。大人と違って子供にとっては宿の風景も、露天風呂もそう印象に残るものではありませんが、食に純粋な子供の口の中では宿の印象が刻まれることを願ってお出ししました。我が家の子供の成長は親から手を放れつつありますが、お客様の子供の成長に味覚の面から関わることが出来、私が受け継いだ葉山葵の醤油漬けの味覚の歴史のように、どこかで宿の味を思い出して頂ければと思っております。


    2012年5月21日     
    古天神 井崎
  






 
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2012年03月20日

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B級グルメとスイーツの催しがグランメッセ熊本で開催されていました。味は残念ながらB級にも届いていなかったのですが、近くの西原村まで足をのばしました。小国に住むようになって、あちこちと出かけています。西原村は熊本市に近いのですが、約70キロも離れたこの小国と同じ阿蘇郡の、まだ村なのです。最近になり、村という響きに郷愁を感じ出かけています。村とはいえ、村に誇りを持って生活している事が村内を歩いただけで伝わってきます。衰退著しい村が多い中で、西原村は観光客をたくさん呼び込むような、村を訪れたくなるような仕掛けを、村あげて取り組んでいるようです。

 俵山の近くの物産所「萌の里」を中心に様々なイベントや陶芸・雑貨店・料理屋・音楽関係等の芸術家村が形成されています。特に、世間と断絶したような風変わりな、しかしながら音に対する追究は際だっているオーナのオーディオ道場は異空間そのものです。人を引きつける魅力を発信している、西原村のあり方は、この小国でもおおいに参考になりました。

 今日はその焼き物窯の一つ、三六窯でコーヒーカップを買い、その帰りに外輪山を上ったところで、道沿いに車がたくさん止まっているのを見かけ、おりて近づくと煙が立ちこめていました。ほうきのような道具を持った人たちは野焼きの広がりを防ぐ地域の人たちだったのです。阿蘇の冬枯れの原野は、火を付けられ瞬く間に燃え広がり枯れ草を焼き尽くしていたのです。阿蘇では野焼きは冬に終わりを告げる儀式であり、春の息吹を呼び込む炎の祭典だったのです。

 宿に戻るとウグイスが鳴いていました。宿はまだまだ冬枯れの景色の中ですが、気温10度の肌寒い中やっとボイラーを炊かずに源泉の温度のままの露天に入りました。湯から出たらまだ寒いのですが、服を着るとぽかぽかと温かくなるのが、温泉なのです。小川の向こうは枯れ草のままですが、新緑の春は着実に近づいてきています。

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     古天神 井崎
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2012年03月06日

 2月の末頃小国の街に買い物に出た折り、道の駅ユーステーションの近くの広場でテントを畳む青年を見かけました。声をかけていいものか迷いながらも、気になってしまい話しかけました。なんと、大阪から自転車でテントを張って野宿しながら旅をしている大学生だったのです。大阪から日本海に向かい南下してきて鹿児島まで走るそうでした。兵庫を走っているときに雪に遭い、さすがに夜も寒くて寝られなかったそうです。家の中で寝ていてもまだ寒いこの時期に自転車で旅を思いつく青年に若さと夢に向かう壮大さに感激しました。青年は未来に向かって自転車をこぎ続けていたのでした。こぎ続ける大地は青年にとっては未来にと続くのですが、果たしてこの先の未来が安泰なのかどうかは3・11を契機に誰もが考え込んだのではないでしょうか。不安を覚えずにこの1年を過ごした人はおられないはずです。

 日本という国土があれほどまでにもろく不安定だったとは専門の学者以外、誰も認識していなかったはずです。地球の地殻変動は太古の昔から連綿と続いておりこれからも続くことを証明したに過ぎないのです。その不安定な地殻の上で生活をしてきたのであり、たぶん暫くは大丈夫だろうという淡い期待の上で街を家庭を家族を築いて来たのではないでしょうか。まさに砂上の上で生活を築かざるを得ないのが、日本のどこに住んでいても受け入れざるを得ない現状のようです。確固とした足場を築けないこの日本の国土で、私たちは何を拠り所としてこの先を歩んでいけばいいのでしょうか。どこかに逃げ出すわけにはいかない私たちは、これからも不安定な土台を土台として生きていくしかないようです。地殻の変動を止められないのであれば、私たちは変動による災害を最小限にとどめる備えだけはしていかなければならないはずですが、いつ来るかも知れない災害に絶えず備えるだけの緊張感を維持し続けることは出来ないのも現実なのです。

 この不安に応えるのが政治の力であり、政治家の務めのはずです。まずは、政治は東北の復興を最優先に取り組んで欲しいのです。東北に明かりが見えてこないことには日本全体が元気にはなれないはずです。「一つ」になって力を合わせようとしているのは国民なのです。家族や街や社会が地震と津波と原発でバラバラに引き裂かれたから、「絆」の本当の意味を分かったのです。絆を大事にしているのは国民なのです。「絆」を軽々しく政治の道具に使って欲しくないのです。この災害で分かってきたのは、一つになって力を合わせたのは、自衛隊や消防や警察の決死の覚悟の貢献であり、その後に続く多くのボランティアの皆さんの働きであり、芸能人の活動や料理人の炊き出し、多額の寄付をした企業であったり、海外の住民やアーテストをはじめ、ほとんどの国民が募金したり支援物資を送ったことなのです。

 この間国民より先に身を挺して働かねばならない政治家は何をしていたのですか。大政翼賛会の亡霊に怯えて、もしくはそれを口実に一つになるどころか、互いに協力も出来ないような器の小さい政治家を私たち国民は育ててきたのではないでしょうか。天下国家のことしか考えていないとうそぶいている政治家がいましたが、この大震災から一刻も早く復興させることが当面の天下国家のはずであり、身を犠牲にして働いる姿を見ていたら少しは説得力はあるのでしょうが、政局のことしか考えず1年生議員と酒を飲み交わしている政治家に、天下国家を語る資格もないはずです。国民は一人一人家族や社会や国のために働いているのです。だから政治家は国民のために働いて欲しいのです。政局のためにだけエネルギーを使って欲しくないのです。

 日本の国債の格付けが下がれば ギリシャのように国が破綻するとマスコミは国民に脅しをかけます。格付けが下がれば真っ先に痛手を受けるのはいまだ復興していない東北なのです。地震や津波や原発で被害を被っているのに、経済が破綻すればどうなるか位、誰にも分かることなのです。破綻を防ぐ方策は国民個人の力でははどうしようもないのです。それを出来るのは政治家なのです。国民は先の不安のために出費を抑えて地味な生活を甘んじているのです。享楽に溺れている国民なら破綻も致し方ありませんが、そうでない国民のために、政治家は本当の天下国家に目覚めて欲しいものです。政治家に対する信頼が薄れ続けていると言い続けてきましたが、国民は現在の政党に見切りをつけてきたのかも知れません。大阪での一首長の動きは大阪にとどまらず、国全体に影響を及ぼしかねない勢いで広まりつつあります。訴えていることには、現在の政治に欠けている一理あることも多いので急速に支持されていくでしょうが、本当の国民のためにはどうなのかと、警戒もしていかねばならない危うさを持った人物でもあります。

 この1年間私は苦悶の中にいました。頭の中で自問自答しながら生活をしていた気がします。もちろん、宿を始めたばかりで宿のお客様をどうもてなすかに明け暮れていたのも事実であります。忙しかった秋が過ぎ凍てつくような冬も何とか乗り切り、3月11日が近づくにつれて何もしていない自分に情けなさを感じつつ日々を送っていました。いても立ってもいられず、東北に向かうつもりでしたが、家庭の事情で遠くまで実家を空けられない事態となり、何度も炊き出しに出た料理人やボランティアの活動を応援するしかない自分に恥じ入っていました。今NHKは震災特集を放映しています。あの津波の映像を改めて見ると、あまりの巨大さに映像を見ただけでも恐怖を覚えます。あそこに居た人々の為す術がなかったことが実感されました。3・11以降は人生観が変わったり、ものが書けなくなったと辺見庸をはじめ多くの人々がが発言したり書いたりしています。私が人生観を変わることと、被災地で犠牲者になった家族を持つ悲しみは全く次元が違うため、一緒にしないでくれ、言葉に出来ない、言葉を失うというのが本当でしょうが、あえて書くことで被災者の哀しみに寄り添うことを許していただきたいのです。

 5日現在の震災死者1万5854人 不明者3274人 死者の数の後ろにはその家族の哀しみがあります。不明者が未だ3千人を越えているのです。悲しみにも浸れない、やりきれなさと茫然自失で時間が止まったままの被災者も多いのです。親を亡くした、兄妹を亡くした子供達、子供を亡くした父親、母親。あの日を境に絶望の波に飲み込まれてしまったのです。悲しみを共有出来るなどと、不遜な思い上がりは持ちませんが、悲しみに寄り添う姿勢だけは持ち続けていくつもりです。不明者の家族の方は、顔も見られずに死を受け入れなければならない過酷な現実には途方に暮れておられるはずです。家族を失った悲しみは時間がたって和らぐことはあっても消えることはありませんし、絶望感のトラウマは心の奥底にとどまり続けます。私が大学生の時に高校に入学したばかりの弟を病気で亡くして、40年たっても未だに悲しみのトラウマを抱き続けているのです。そのために、息子を亡くした親の悲しみも、自分が親となってその当時の両親の嘆き悲しみを思うといたたまれません。ただ、弟は少しの時間看病する期間があったのですが、津波は一瞬にして命をさらっていったのです。絶望の深さと無念さは想像を絶するものがあったはずです。

 私は被災地に行けなかったのですが、別府の大学にいる長男は12月にボランティアで現地に行きがれき等の後片づけの手伝いをしてきたようです。とても大変な仕事で疲れたと言って帰ってきましたが、少しでも被災者のために働けたことに充実感を感じていたようでした。被災者は労働の手助け以外に精神面の話相手や、生活支援等の様々な活動のボランティアはまだ不足していると話し、九州からは遠いので支援に行く人が少ないと残念がっていました。太宰府にいる妹は地域で3月11日に東北支援バザーを企画しているようです。東北の物品等は購入する予定でおりますが、何らかの形で被災地に対する支援の手をさしのべることも考えております。

 揺らぐ大地に身を置いて生活をしていかねばならない私たちは、やはり人との絆の強さを支えにしか歩いていけない気がします。生きていく大地の土台が不安定であり、国を導く政治が不安定であり、経済も不安定な中で、確固とした足場の確保を他人任せにしては平穏な未来は期待できないようです。国民が進むべき理念も提示出来ないような政治ではありますが、国全体で百年後の明日を考える契機の3・11にしていかないと犠牲になった方々や被災者に報いる事は出来ないと思います。確かな未来が続くと、大地を信じて自転車を漕いでいた日本の未来を背負う青年の夢を壊さないためにも・・

           
        2012年3月6日
        風のテラス 古天神
               井崎  



 

 

 


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2012年02月09日

 先日佐賀に帰った折り、本当に久しぶりにですが映画館に足を運びました。見たい映画は数多くありますがそのほとんどは何かの都合で見過ごしていました。映画は映画館で見るのにこだわっています。ビデオで見ても何か物足りないのです。画面も違うし音響も違うのですが、それよりも劇場の持つ一種独特の雰囲気が映画館にはあるようです。家のテレビで見ると、家庭の現実感に負けてしまい、映画の世界に浸れきれないような気がするのです。映画全盛期の終わり頃を知っている者にとっては、昭和30年代の娯楽のない時代にあっては映画を見に行くことは、一大事であったのです。農家であり、鶏を数百羽飼っていたため、家族で家を空けることはほとんど無く、壱岐の島と佐世保等に行った数回の家族旅行は未だに鮮明に残っています。数が少なかったのでそれだけ印象に残らざるを得ないのです。家族での旅行は本当に少なかったのですが、幸い農業一筋の父親が映画好きだったので、たまに連れられて行くことがありました。 
 
 テレビのない時代に映画を見ることは子供にとっては最大の喜びであり、胸を躍らせて佐賀の街に出かけることであり、滅多にない外食をすることでもあるのでした。今では考えられないことですが、満員の映画館で立ち見をして人々の肩越しにスクリーンを見ることもしばしばだったのです。その雰囲気が映画館だったので、上映されて暫くしてビデオ化されたものを見るのに抵抗があったのです。あのころは映画を見ることで同じ体験の一体感を共有していたために映画に対して特別な思い入れがあったようです。国としての同時代性が残っていたのを懐かしがっているだけかもしれませんが、孤独死や無縁仏の数は年々多くなっていますし、孤族という言葉は最近になって使われだした言葉です。家庭での幼児虐待などの寒々とした事件は後を絶ちません。個々の生活が家庭なしでも営めるようにしてしまった社会の風潮を見直し、家庭のあり方を、家族の良さをもう一度認識し直すところから本当の絆は生まれてくるのではないでしょうか。

 実は映画を見に行くきっかけとなったのは、テレビで放映された「オールウエイズ 三丁目の夕日」を見たからなのです。最新版は「64」です。そんなに豪華な映画とは思いませんし派手な活劇や心理描写があるわけでもありません。むしろ地味な日常の生活が描かれています。昭和を知らない若い人には何の感興もわかないかも知れません。しかしながら、私には懐かしさを通り越して現代を考えさせる内容のある映画だったのです。映画の中では今と違って地域が生きていましたし、隣近所が支え合っていたのです。そして人々は個人の発展と社会の発展が国を良くすると信じて働き続けているのが描かれています。地域があり、隣人が居て家族があるのです。人のために自己を犠牲にして生きることに価値の重きを置いていた時代だったのです。個人主義と利己主義の本来の意味を私たちはどこで取り違えてしまったのでしょうか。戦前の全体主義の戒めとして登場した個人主義は、最善の社会を造る前提であったはずですが、個人主義の底にあった他人に対する配慮や優しさを見失っていたのかも知れません。人間が人間らしく生きられなかった時代には人間の解放と自由をもたらすために個人主義が生まれたのであり、それはあくまでも対政治的なのです。政治が民主的になった時代において個人主義を振りかざしても、それは利己主義が外見を変えて主張しているのにしか過ぎないのです。

 個人主義だからとか、価値観が違うからとか異なる意見を交わすときによく使われて、さも新しい考えを身につけているがごとくに会話を遮断されていました。異なる価値観だからと自己の狭い価値観の中に、個の殻に閉じこもった結果が現在の孤族の社会を招いたのではないでしょうか。もっと生きている土台の深いところを掘り下げるところに価値観を見いだすようにしたら、個人主義の先にある大切のものを共有出来ていたのかも知れません。昔が良かったという懐古趣味には陥りたくはありません。昔の良いところの裏には見落とされがちですがどうにもならない不幸さも隠されているのです。そう思うと、今の時代の不幸も抱えつつ、絶えざる希望の積み重ねでしか時代を乗り切る術は無さそうです。自己だけが満足する結果を拙速に期待するのではなく、時間をかけて多くの他人が納得できる時代を造っていくのは、社会を主体的に構成している個々の私たちからでしかないのです。

 世の中から少し離れたところで生活をしていると、生活に現実感がなくなって困ります。雪道には獣の足跡、居住棟の玄関のドアーは凍り付いて開けることも出来ません。零下4度の朝の外気の中を歩いていることが、そもそも異空間なのです。街の賑わいの中の活気とはほど遠い宿での生活ですが、何故か外気ほどには寒くはないのです。世俗から離れた山里での、このまま冬の生活も悪くはないので、もう暫くは張りつめた凍てつくような寒さの中で籠もっていたい気もします。


     24年2月9日(木)

     古天神 オーナー 井崎
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2011年12月06日

 まずは、お忙しい師走のこの時期にも関わらず多くの皆さまにお出かけ下さったことを感謝申し上げます。夏のライブから5か月しか経っていないのに来ていただけるのか不安もありましたし、宿の方も始めたばかりで、大丈夫だろうかという危惧ももちろんありました。いつものことですが、ついつい勢いで決めてしまう癖があるもので、夏の2日目のライブが終わった打ち上げの時にベースの川上さんから、この家だったら東京のプロでも演奏しに来るよ、という発言にすぐに反応してしまい前後のことを考えずに12月3日を決めてしまっていたのでした。

 企画した目的は幾つかあり、多くの皆さまに素晴らしいジャズヴォーカルの大島さんの歌声を聞いていただきたいのと、宿でもライブをしたいというのが大前提でした。大島さんがお友達と泊まりに来られたときに宿で最初のミニライブ快く引き受けてもらい、黒川温泉の知り合いの方々を前に歌ってもらい好評を受けました。中学の同級生が9人で泊まりに来てくれたときも、浦郷君と深川君がフォーク等をギター伴奏と歌で披露してくれました。70年代のフォークで育った世代としては厨房で聞きながらも懐かしい限りでした。特に深川君作の「子供時代」という佐賀の風景を取り込んだ詞は素晴らしい曲で、是非とも世に出していただきたい1曲でした。もう一つは、ピアノを弾く二人の息子にプロのピアノ演奏を目の前で聞かせたいというのもありました。もう一つは、好きなジャズを目の前で聴きたいというのがありました。

 東京で70年代を過ごした私にとって、学生運動の背景曲としてフォークがあったような気がします。政治に結びついた時代で、今とは違って生活のために政治を世の中を変革しなくてはという思いが強かったと時代です。残念ながら今は政治に緊張感がないようです。国民を愚弄しているとしか思えません、国民の側も、自己の生活に安住しすぎたのかも知れません。70年代のその政治の季節に新宿のピットインとか渋谷のジャズ喫茶に通っていたことを思い出します。大学3年の時に初めて行ったヨーロッパ旅行のパリでもジャズのライブの店に入り、すさまじいパワフルな黒人の演奏に感激したことを覚えています。内面の混沌に押し潰されそうで暗い高校時代を送っていたある夜のラジオから流れていた、ジョン・コルトレーンのサックスに佐賀にはない違った世界があることを知らされたのが、ジャズとの最初の出会いがあったようです。
 
 経済連を辞めて、教職の資格を取るために奈良で2年間大学生活を送りました。その時期も西大寺にジャズ喫茶がありよく通っていました。京都にも寺巡りで度々出かけていましたが、その際も河原町の路地にあった、「厭離穢土」とういうジャズ喫茶の名前に惹かれて通っていました。教職に就いた最初の修学旅行の京都の地では先生達を引き連れてジャズ喫茶に行ったことを思い出します。そういうジャズとのつきあいは長いのですが、好きなプレイヤーを挙げろといわれると窮するのです。何枚もCDも持っているのですが、この人というよりジャズの醸し出す大人の洒落た退廃に惹かれたのかも知れません。だから、聴く曲は大編成やデキシーよりコンボのモダンジャズでピアノやサックスを好みます。大学時代ジャズ喫茶に流れていたフリージャスには付いていけませんでしたし、その後のフュージョンも合いませんでした。

 こういうジャズとの長い付き合いをしていたので、ピアノを弾く二人の息子にはジャズを強制的に勧めました。練習曲から始まりクラシックの前で終わるのがだいたいですが、教えていただいた小林先生が自由にさせるタイプの方だったので、今でもマンションに電子ピアノを置いて気晴らしに弾いているようです。長男はJポップ次男はジャズからクラシックJポップを弾いているようです。この二人にプロの演奏を生で聴かせたかったものです。ジャズを聴き続けている私にとって、我が家で聴ける事は夢のようでした。まさか、水上勉の作品に惹かれて徘徊していた京都の先斗町で聞いたジャズを30年後の我が家で聴こうとは思いもしませんでした。それも、やはりイベント好きだった私の生活の延長上にあるようですし、遊び心いっぱいで造ったカフェー風のこの家のおかげでもあります。この家に来て下さった友人知人がなんかくつろげるという感想を漏らしているのを聞いていたため、いつかはこの家で何かをしたいという思いは持ち続けていました。それが、好きなライブの演奏会場になるとは予想もしなかった事とはいえ嬉しい限りです。

 そのほかに主催者でしか味わえない喜びの時間があるのです。開演前のリハです。出来上がった舞台を見るのはどなたにも機会が与えられています。宿をやり始めてからそこに至るまでのプロセスが気になっています。場を作り上げるのはどなとも苦労されているようです。宿もお客様をお迎えして生き生きと活気づいてきます。お迎えするお部屋のしつらえ、露天、接客そして楽しんで期待を膨らませておられる料理。料理屋さん等に行ってもなるだけカウンターに座り人の動きを見ているのです。料理も演奏会と一緒でお客様を目の前にしてからはやりなおしがきかないのです。

 夕食の時間が近づきお客様を食事処の席に案内すると、お出しする料理もライブ感と臨場感あふれる緊張の中で作っていきます。女将が作ったその日のお品書きと、お客様の口にしか残らない、すぐに消えていく料理に時にはもどかしさを感じることがあります。料理をした体感はあっても、私の手元には作った料理の実態が残されないからです。それがお客様に提供する料理であり、おいしかったという言葉が次の料理に向かわせる励みになるようです。今回のリハで学んだことは、プロの演奏家は事前打ち合わせ無しで大島さんの歌う曲を当日すぐに演奏できることです。プロは当然かも知れませんが、部分部分の調整だけで曲が出来上がっていくのです。その舞台を作っていく過程を、舞台の裏側をプレイヤーの素顔を見られるのも我が家で催すライブの楽しみの一つです。

 私も野菜等の素材一つから生まれるここでしか味わえない料理を目指しているのですが、まだ暫く時間がかかりそうです。ただ、料理は演奏と同じでライブ感が大事です。この秋に植えた渋柿の熟柿を見てひらめいた料理もなるだけお出しするようにしています。作った者の手元に残らない料理であれば、お客様の胸の中にだけは味の余韻が刻める料理人になるよう精進していくつもりです。

 今年の秋はどこもきれいな紅葉を見ることが出来なかったようです。寒くなるのは苦手ですが、季節に合った気温になって欲しいものです。秋は秋らしい寒さでないと、植物も野菜等もどう成長していいのか困っているようです。しかしながら、気候の変調も元を正せば私たちが環境をないがしろにした生活の結果なのです。きれいな紅葉を毎年見られるようにするためにも、私たちの生活をより循環型に近づける必要があります。古天神のモミジも真っ赤に染まらず無惨にも散ってしまいました。露天に散ってくるモミジが来年こそは真っかに染まり、お客様を楽しませることを願って・・・

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    大島さんと川上トリオのリハ

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    VO 大島麻池子

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     ベース 川上俊彦

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       ドラム 中村 健  ピアノ 緒方公治

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     9月30日 宿での大島さんのミニライブ 箸をマイク代わりに
     
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    11月5日 成章中の同級生一行 浦郷君と深川君の宿での演奏




         23年12月6日

         『イフ・アイ・ワー・ア・マジシャン』ルウー・ロウルズ

         この曲を繰り返し聞きながら

         風のテラス古天神 オーナー 井崎




posted by 風のテラス 古天神 at 17:02 | Comment(0) | 風のテラス便り

2011年10月30日

 夏に続き、ジャズライブをカフェー桜乃において企画しております。今回もVOの大島さんを始め、前回出演のベースの川上さんをお迎えし、川上トリオとしてピアノ緒方さん・ドラム中村さんにも加わっていただきました。九州のジャズ界では第一人者の方々ばかりで大いに期待が出来ますので、皆さまのご来場をお待ちしております。


 第3回カフェー「桜乃」
        ジャズライブ

期日 12月3日(土)

時間 開場19時  開演19時半

場所 カフェー「桜乃」佐賀市駅前中央 2−10−28

料金 3000円  ワンドリンク付き

定員 約30名様

出演者
  「大島麻池子と川上俊彦トリオ」  

ベース  川上俊彦

 ピアノ  緒方公治 

 ドラム  中村 健

V O 大島麻池子

      九州ジャズ界で大活躍中のアーティスト   
   ジャズライブについての問い合わせ先
        カフェー 桜乃 
     くつろぎの大人の宿 古天神 オーナー  井崎
                             
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2011年10月12日

 食材の購入や雑用品の買い物、その他の用事には地元の小国町に出かけます。ファームロードワイタの方が道は広いのですが、地元の人しか通らない山の中の細い曲がりくねった道を利用させてもらっています。半分の時間で着きますので大いに助かっています。寺尾野 原 大鶴等の小さな集落がいくつか道沿いに連なっています。まだよそ者の道行く私たちにさえ頭を下げていただき、地元の人の人情の厚さに忘れていたものを思い出させてもらっています。佐賀の町ではもう薄くなってしまっている、人との深いつながりの大切さを知らされました。さすがに、ツーリズムの先進地であり都会の人が憧れて住み着きたくなる町であることを実感しました。

 冬に備えて温泉のボイラー等や外構等の工事は残っていますが、激流を下っていたようなオープン時の慌ただしさは収まり、宿での生活も落ち着きを取り戻しつつあります。もちろん、お客様をお迎えすると忙しくなりますが、オープン当初は全く先が見えてなくて、段取りも応対も皆目見当がつかず不安と緊張の中、ただ目の前のお客様の対応を精一杯努めるだけでした。ゆとりも、余裕もなく、ただがむしゃらに働いていたような気がします。おかげで、オープン時のお客様には様々なご不便やご迷惑をお掛けしたことを今更ながら、お詫び申し上げます。

 やっと少しだけ宿の生活に慣れてきますと、周りが見えて来ました。小国までの山道にはコスモスが風にそよいでいるのです。もう、一部の田圃では稲刈りも済んでいました。彼岸花やコスモスや渓流の流れも目に入らず、ひたすら未知の宿の道を拓くために走り続けていました。物事を新たに始めるには、相当な労力が要ることは覚悟はしていたつもりでしたが、遙かに想像を超える多忙さに圧倒されました。しかしながら、利用していただいたお客様の喜びの声をダイレクトに受けることが出来るのが、この仕事の醍醐味かとも思い知らされました。やることなすこと初めてのことで、あたふたとぎこちない中でも新たな仕事の新鮮さに感激しながら包丁を握っていました。厨房からテラスの窓を通して見えるあふれる緑が、胸の奥まで染み渡っていくのも感じていました。その厨房をこれからの拠点として、お客様に驚きかつ喜んでいただける新たな味を、自在に操れることが出来る日を目指して、日々精進していくつもりでいます。

 小国までの山道を走りながら、私の中にあった原風景に出会えたような喜びを感じています。私の生まれた佐賀駅近くも50年前は見渡す限り田畑しかありませんでした。両親は元気に農作業に励んでいました。テレビもなかった村の子供にとって、村の祭りや年1回の村の旅行は楽しみの一つであり仲間との絆を確認する場でもありました。子供時代に過ごした田園の風景が私の原風景です。町が次第に都市化されていくことに馴染めず、疎外感と違和感を抱き続けていたのでした。私を育んだのは田舎の土であり風なのです。大人になっていくにつれて、私は私の景色を喪失したまま、ふる里を見失ったまま、この小国の地にたどり着くまで、ふる里の情景を求めて漂っていたのかもしれません。そんな思いにさせる小国の里の景色なのです。

 小国に行く途中の流れていく景色には、里の人々の現実の生活は見えません。しかしながら、里の人々を育む土も風もここではいまだ健在なので、都会人と心のありようが違うのは予測がつきます。都会の生活が何故に疲れるのか理由がここに住んで見えてきました。都会では人間の欲望がをむき出しになっていくような景色だったのです。人々の見栄や欲望を刺激するネオンや看板はありません。身の丈にあった生活が出来るのです。他人に思いを馳せるゆとりをなくすのも熾烈な都会の生活では仕方もないかもしれません。もちろん、都会には人間の欲望がむき出しになっているからこその魔力もあり魅力もあります。都会でしか住めない人が居るのも事実です。そういう疲れた都会の人にも安らぎを与えるのが、緑とせせらぎと鳥の声しか聞こえない、この古天神の魅力でもあります。

 里の景色の中、里の人々の暮らしの中、私のふる里の景色を取り戻したこの地で、秋の山道を、コスモスの咲き乱れる里の道を、小国へ食材を求めて明日も走ります。

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           小国までの買い物道      

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棚田のような田圃 陰干し米の新米を隣の農家に予約

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       この宿の名前の由来の地名 ふるてんじん橋 
       宿の横を流れる川の名は蛭石(ひるいし)川
           筑後川の源流の一つ
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        宿の前のファームロードワイタ わいた温泉方面


 オープン時に限らず、今でもお祝いをいただいてます。佐賀に帰ったおり届けていただいたり、宿に持参していただいたり皆さまのお気持ちに、期待に応えるように女将とともに頑張りますのでよろしくお願い致します。皆さまの温かい応援に支えられていることに感謝しながら、近づきつつある紅葉のシーズンに迎えるお客様の準備をしております。


     12月分の宿泊の予約お受け致しております。


                   古天神オーナー 井崎
                   23年10月12日

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2011年09月26日

 さわやかな秋晴れの中 くつろぎの大人の宿「風のテラス古天神」はやっとオープン致しました。

 紆余曲折があり、何事も物事を始めるにはなかなかスムーズにはいかないものですが、皆さまのご支援とご協力 激励を支えになんとか開店にこぎつけることが出来ました。

 23日金曜日のオープン最初のお客様はわざわざ愛知の方から40年ぶりの大学時代の同級生が家族で利用していただきました。お泊まりいただいた上に過分なお祝いまでいただき恐縮の限りです。もっとゆっくり積もる話をしたかったのですが、忙しくて十分なおもてなしを出来なかったのが心残りとなりました。

 土曜日は二組様、小・中学時代の同級生のご家族と知り合いのご夫婦様でした。同級生の方は高齢のご両親様と一緒だったので料理等がお口に合うか心配していましたが、ほとんど残さずに食べていただき安心致しました。親孝行の見本をのような同級生の暖かい親子関係を学ばせていただきました。また、知り合いのご夫婦の奥様からはメニューの品書きを見ても次にどんな料理が出るか想像が出来ず、味も良くて楽しかったという声をいただきました。

 まだまだ至らぬところも多々ありご迷惑をお掛けしましたが、これからもっと改善し発展していくように努めていきますのでよろしくお願い致します。まずはオープンの最初で慣れないための粗相やご不便をお掛けしましたことをお詫び申し上げ、ご利用いただいたことに深く感謝申し上げます。

 開店のお祝いとして多くの花束やフロントを飾る鬼の置物や時計を始め品物等もいただきました。暖かいメッセージを添えたり、わざわざ花屋さんに植え込みを注文されたりと皆さまの心のこもったお祝いに女将とともに喜んでおりました。本当に有難うございます。

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            23年9月26日(月)          
            くつろぎの 大人の宿
            「風のテラス 古天神」 オーナー 井崎







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2011年07月21日

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       御礼
              
    カフェー「桜乃」
  シャンソン・ジャズの夕べ

 お忙しい中ご出席頂きありがとうございました。おかげさまで演奏会は16日・18日の両日とも大盛況で終えることができました。十分なおもてなしができず、心苦しい面もありますが、出席いただいた皆様からも、またVO・ピアノ・ベースの出演者からも好評を頂きました。宿の紹介もたくさんしていただき、このHPにも多くのアクセスがありました。皆さまから何かとご協力いただき感謝申し上げます。

 次にも何か企画等がありましたらお知らせしますので、ご期待ください。

 演奏会では16日16000円  18日19500円の募金が集まりました。全額佐賀新聞社を通じて東北の被災地へ寄付させていただきます。26日(火)の新聞に掲載されます。ご協力ありがとうございました。

 このHPも8月に全面アップするよう準備を進めていますが、現地の工事の遅れで写真撮影が遅くなるようなので、とりあえず、宿の詳細の内容だけは後1週間ほどで掲載します。また、カード等でお知らせしている宿の予約電話番号については、回線は開通しているのですが、内装工事の関係で未だ電話機につながっておりませんので、暫くお待ち下さい。写真を入れたHPの完成版はお盆頃になる予定となりましたので、お待たせしておりますがよろしくお願いいたします。

           7月21日    古天神 井崎
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2011年05月23日

梅雨の走りの降る窓の外に、山法師が白い花を咲かせています。今年は気づくのが遅くやっと最近になって白い花を目にしました。家にいながらにして花に気づかなかった、日頃の生活のゆとりのなさに呆れます。宿のオープンまで残すところ約3ヶ月となりました。現実の厳しさがより近くに感じられ始めると、次第に本当にやっていけるのかと不安も心配も膨らんできて、二人して重い気分に押しつぶされそうになってきていました。何もかも準備することが多すぎて、どこから手に付けていいのか混乱していました。そういう生活を送っていますので、窓の外の季節の変化にも目をやるゆとりも無かったようです。山法師は好きな花の一つです。可憐な花をひっそりと気品高く咲かせているたたずまいに惹かれます。宿のあり方も、そういうたたずまいを基調としたいのですが、暫くの間は粗相や失敗の連続であたふたとした、とても山法師のような咲かせ方は難しいようです。ただ、おいで頂いた試食会でも助言いただいたように、私たち夫婦の気さくな飾りのない雰囲気はなくさないように心がけるつもりでいます。上質な宿の雰囲気、上質な部屋の造り、上質な料理はお出しする予定ですが、気取った堅苦しい心の通わないおもてなしだけは、避けるようにしていくつもりでいます。

 これからはサービス業を始めるわけですが、もう既に仕事をされている方々の話は厳しいものがあります。もちろん、これまでの仕事も大変な面ももちろん多く、それなりにやってきたつもりです、教えられたことも多くありました。苦労もありましたし、どうにもならないような困難に直面したこともありますが、救いは生徒との関わりの中では生徒の笑顔に何回も助けられたことです。また、ある企画に対しクラスの生徒がまとまって自ら動き出したときの感動体験は、教職生活の今にして思えば宝のような気がします。教職生活の大半は生徒と何かを作り出す体験を共有してきたような気がします。教育が厳しいしつけをしなくてはいけない面もあるのは当然だし、そういう中での人との関わり方しかできない生徒もいるのも事実です。ただ、規律を押しつけることが目標で規律の先にあるものが思い描けないような、そこから教育の創造に結びつかない指導にはずっと違和感を感じていました。生徒と企画を考えてイベントを成功させるためにどういう役割や配慮が必要か、何を課題としてみんなで論議すべきかを、そこから人間関係のあり方も学んでいく教育に努めてきたつもりです。

 そのために、業種は大きく代わっても、宿の企画もこれまでの生活の延長上にあるような気がするのです。果たして、お客様が笑顔で宿を帰っていただくかはこれからの私たちにかかってくる訳ですが、そこに労を注ぐのは惜しまないつもりでいます。かつて現役の生徒達に仕事を辞めてからの夢の話を聞かせたときの生徒の目は輝いていました。夢を描けない生徒・子供達が増えています。生きる指針を提示し、意欲を育み希望を叶える方法を語っていけば、この国の将来を背負っていく創造溢れる人材が育っていくはずです。生徒の表層だけを見た、生徒の心の中に届かない指導では、つまらない大人の人生を教えたにしか過ぎません。

 先達の教師には枠にとらわれない個性豊かな先生達が多くおられました。パソコンは出来なくても血の通った厳しくも暖かい指導をされていました。学校に活気が漲っていました。生徒も個性に溢れていました。教師の幅を狭くしたのはただ単に現場に責任があるよりも、そのような教師しか育てないような教育のシステムにしてしまった政治にも責任があります。このような大震災を前に、国民は一つになって何とかしようと支援の気持ちでまとまっているのに、政治家達のこの期に及んでも政局にしか出来ない愚かさに情けなさを通り越します。長い目で、こういう国のあり方を変えていくのが教育であり、そこに現場の教師の存在価値があるはずなのです。多くの生徒に夢を語ったことを私は実現させたいし、言葉だけでなく行動としてやり始めることが、仕事を辞めてからの、生徒に対する責任の取り方だと思っています。これからの事業が失敗するか、成功するかが問題ではなく、教壇の上で言ってきたことを実行に移して、やっと本当に教職の仕事を辞められたような気がするのです。もちろん、このことは私の胸の中の吐露ですので、お客様に対しては宿での楽しみをいかにして満足していただくかしか考えていません。

 さいわいにして、宿の色んな話をさせていただいている方々からは応援の言葉を多く頂いております。レストランの方、宿の女将、教え子、中学や高校や大学の同級生・後輩、元のJAの仲間、教職の仕事で知り合った方々、家内の関係の方々、現地で知り合いになった方々、旅先で知り合いになった方、親類縁者、地元の方々、そのほか色んな縁でつながりが出来た多くの方々から暖かい応援を頂いていることに感謝をしております。不思議なことにそんなことをしてどうするのだとか、何かを始めるときに出る、心配からの忠告等はなく応援の言葉、期待の言葉が多いのが私たちの支えにもなっているようです。もし、そうではなく非難の言葉が多かったら、私たちの先にはこれから始まる梅雨のような暗雲立ちこめた宿になるのでしょうが、ほとんどそういった言葉を受けませんので、私たちが甘いのかも知れませんが、暖かい応援の言葉と期待に応えられるような、雨の中でも白い花を咲かせて存在を示している山法師のような宿にしていきたいものです。

 もっとも課題としている宿の試食会も昨日で27回目を終え、さいわい好評をえました。時間を割いてお出で頂いた皆さんに感謝いたしますと同時に、貴重なアドバイスも大いに参考にさせていただきます。ありがとうございました。

23年5月23日

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2011年05月05日

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昨年の7月仕事を辞めて以来、宿の研修以外どこにも行かずほとんど家に籠もって料理の研鑽を積んできました。料理の道は厳しくて、まだまだ未熟の域を出ませんし、東北の震災も依然として悲惨な状況は続いていますので、迷いはありましたが、かねてより念願だった汽車の旅を、家内と4月25日から二泊三日で行ってきました。九州内を家族で旅行するときはほとんど自家用車を使っていたのですが、九州の観光列車は斬新な外観と、九州らしさを取り入れた内装やデザインが全国の鉄道ファンから注目されているらしく、いつかはとあたためていました。

 それと列車に乗りたいもう一つの理由は、恥ずかしいことにこの年になるまで、九州の内陸部を横断特急が走っていることを知りませんでした。アメリカの大陸横断は西部開拓を辿る旅でもありますし、貧しいバックパッカーはヨーロッパにもっとも安く行くためにシベリア鉄道を利用していました。五木寛之もシベリア鉄道を利用した主人公の作品を書いています。沢木耕太郎の「深夜特急」も旅の作品としては秀逸です。日本はアメリカの一つの州でしかないカリフォルニア州よりも小さいのです。私たちは、佐賀から北海道まで車で走ろうとは余り思いません。しかし、アメリカ人は西のロスから東のNYまで1週間掛けて車で走る事があるようです。体の中の地理感・距離感が日本人とはスケールが違うようです。空間に対する認識が違うことはものを考える概念把握の上で感覚の違いが出てくるのかも知れません。佐賀から北海道まで走ることはとんでもなく遠いことではないと思えるようになりたいものですが、関西までも車で走ったことが無いので、今以上に空間の認識を広げることはたやすいことではありません。

 巨大な阿蘇山が真ん中あたりにドーンと座っているために、九州を横断して山岳地を鉄道が走ることは不可能と思いこんでいたのです。単に地理の不勉強かも知れませんが、熊本から別府までの九州横断特急があることを知ってからは、いずれは乗りたいものだと小さな夢を膨らませていました。初日は新燃岳の噴火の影響を受けている霧島温泉まで、「SL人吉号」「いさぶろう」「隼人の風」と観光列車を乗り継ぎました。この慌ただしい現代において、ゆっくと走る蒸気機関車のSL人吉号は、ゆっくりにしか走れない、そこにこそ失ったものを取り戻すかのような安らぎがありました。時折車内に流れ込む蒸気機関車の石炭を焚く煙のにおいの懐かしかったこと。列車内のサービスを務める女性のアテンダントは、ただ単に笑顔を振りまく昔の花形と違いしっかり仕事をされながら、観光列車に乗務する仕事への誇りとお客への愛情溢れるサービスを感じました。旅を好きな行きずりの旅人達との交流が楽しく、最後尾のパノラマ席を離れられませんでした。球磨川を右に左に交わしながら、遠ざかるレールはこれまでの様々な思いも一緒に乗せて流れていくのです。

 翌日は九州新幹線で鹿児島から一気に熊本に戻り、いよいよ大陸横断鉄道です、いや、九州横断特急です。一応特急なのに、たったの2両のディゼル機関車です。少し頼りなさそうなので山を越せるのかと心配になりました。前日の「いさぶろう」でも初めて体験しましたが、急な山を列車が登るための方法があるのです。それは、ある標高まで進行すると、線路を一端は逆に走行して戻り、次に線路のポイント変換して前に上って行く、スイッチバック方式です。それを立野まで行って阿蘇の外輪山を登っていくのです。雄大な阿蘇はかなり遠くからでも横たわっている涅槃の姿で見られますが、走行している列車の右の方には確かな阿蘇山が、烏帽子・杵島岳・中岳・高岳・根子岳とそびえ立って続くのです。九州を横切って、阿蘇山を遠巻きに横断特急は走るのです。6月からはこの線路を復活した阿蘇ボーイが走るらしく、列車の旅の楽しさが期待できそうです。竹田を過ぎ、岡城趾を遠くに眺めながら、大分を通過したところで海が開け、別府湾の向こうに横たわる仏の里の国東半島は、すでに夕暮れにかすみ始めていました。文人が好みそうな小さな静かな宿でも、若いながら落ち着いた仲居さんのもてなしに和ませてもらって、ゆっくりと温泉に浸かり、おいしい料理を堪能しました。3日目はあいにくの雨となり湯布院の散策は次の機会に回し、九州の観光列車第1号の「湯布院の森」号で鳥栖に戻りました。

 外国に出かける方が多い中で、どうしても国内にこだわってきました。外国に気軽に行ける時代となり旅行といえば海外位に出ないとという風潮もあります。もちろん、見聞を広めるためには若い世代には是非とも海外に出て欲しいのですが、私は地元である九州の足下にも見所や魅力ある景観は多くあるよう気がします。川のせせらぎを聞きながら温泉に浸かる喜びは海外では味わえない旅の楽しさです。私が温泉を持ちたいと思ったのもそこにあるのです。あちこちを見て歩く旅も楽しいのですが、年を重ねるとじっくりと景色の中にも、温泉にも浸かって、自分の中にため込んだ疲れを解きほぐし、明日への活力と人生を見つめ直せるゆっくりした時間の中に至福を感じたいのです。佐賀に住んでいると九州は身近すぎて、若いときは余り興味を持てませんでした。しかしながら、今回の列車での小旅行は九州の味わい深い魅力を再発見出来るゆったりとした列車の旅となりました。

23年5月6日   
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2011年04月21日

 次男の受験の為に12月以来休んでいた宿の試食会を再開しました。暫く人様に出す料理から遠ざかっていたので緊張しました。家族に出す料理は時々作っていましたが、コースで出すメニューと違い、どうしても甘い態度になっていました。ただ、料理の勘だけは鈍らないようにと台所に立っていたのでしたが、人様に出す料理とは心持ちから意気込みから違ってくるのは、第24回目のメニューを作成する段階から感じていました。家族に出す料理も相当厳しい批評を受けていましたが、身内の中では主観的な評価の域を出ません。しかしながら、久々に日程と招待するお客様が決まると体に意欲と緊張感と不安が溢れてきます。試食会の10日位前から出す料理の試作品作りをします。味や盛りつけを家内と事前に検討するためです。この段階で二人が納得しないと消えていくレシピもあれば、味の調整とアレンジ等を加え再工夫をして当日のメニューに載ります。約4ヶ月ぶりの試食会でしたが、前日から自分でも体が動くのが分かりました。前回も約1年ほど間をおいて再開したときには体が料理の勘を忘れていて困りましたが、今回は体が覚えているのを自分でも分かり安堵しました。

 秋の終わりくらいからイタリアンを中心としたメニューから、和食に重きを置いた料理に内容を変更するようにしていました。和食を食べたいとおっしゃる多くのお客様の声を尊重した変更でした。大学に行ってる二人の息子は、和食に変更することに不満を持っていましたが、宿のお客様の嗜好は和食がやはり圧倒的に多いようです。もちろん、前菜の中には和だけでなくイタリアンもエスニックもお出しするつもりですが、メインは和食の流れになります。和食を最初からやらなかったのは、板前さんの修業もしたことのない自分には作れるはずがないと思っていましたし、今でも和食の繊細さ素材重視の料理には敬服せざるを得ません。その和食の厳しさを知った中で、和食の方向性を持って進むのは容易ではないことは充分承知しています。プロの料理人さんからは何を子供だましみたいな事をとお叱りを受ける事も覚悟の上で、一番だしの取り方から練習を重ねています。和食の味付けは昆布と鰹節の出汁と醤油とみりんと酒との絶妙なバランスです、そのどれかが多すぎても少なすぎても味は立ちませんし、素材の持ち味をいかにして引き出すかが、和の調味の難しいところであり和食たるゆえんでもあるようです。しかしながら、ただ和食の形をした料理をお出しするつもりはありません、この季節にあったタケノコの若竹煮等は季節ものですので必ず一品はお出しするつもりですが、他の料理は斬新な味付けをした料理を出せるように工夫をする予定でおります。幸いに、今回の試食会でお出しした若竹煮の味付けも好評を頂き、和食の道をより以上に精進していきます。

 何はともあれお客様からの色んなアドバイスに助けられています。料理のことだけでなく試食会に参加されたお客様から阿蘇神社近くで、数軒の雑貨の店が集まったすばらしい所があると紹介されていました。宿の打ち合わせの途中に早速訪ねたところ、器や味のある書を書かれる店に出合いました。その店の方から、道中立ち寄った宿の余りの立派さに衝撃を受け太刀打ちできないと、少し夫婦して落ち込んでいた心を慰めて癒していただきました。また、同じ敷地内で寒ざらしを食べさせてくれた、ひなびたお店のおばあさんとの何気ない会話がいつまでも心に残りました。きらびやかに飾られてもいないし、素朴なだけのたたずまいながら、店のご主人の個性溢れた店店でした。そこには、今私たちがもっとも求めていた暖かい温もりが感じられる所でした。そんな温もりをお客様に感じていただける宿に、古天神もしていきたいと励まされる阿蘇のしばしの散策でした。何でも整った立派な宿には出来ませんが、二人でお客様を心を込めておもてなしする温かさだけはどこにも負けない宿にしようと、夫婦で決意を固めながら阿蘇を背に帰途につきました。

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2011年03月30日

 どう書いていいのか 何を書けばいいのか 今の気持ちを表現すべき言葉を持ち合わせていません ただおろおろと宙を見つめつつ過ごすばかりです。元気を出さねばならないのは私たちではなく、被災され方々のはずなのに日に日に惨状の余りの大きさを目にしていくと、私たちが元気でいることが申し訳ないような気持ちにさいなまされます。

 被災された方々、地域が日常の生活を取り戻すのは容易ではなく、この先の見通しさえついていない現状では、どんな言葉も気休めにしかなりません。今必要なのは安易な励ましの言葉ではなく、一個の暖かいおむすびであり、一杯のみそ汁のはずです。それさえ出来ない自分は自責の念に駆られます。言葉を失うしかありません。しかしながら、避難所では食料を始め、あらゆる物が不足しています。住む家どころか、すべてを失ってしまわれた方に何が出来るのか、いずれ支援物資は届いても、大切なかけがえのない思い出のものは取り返せません。それ以上に、家族を喪われた方の哀しみを埋める言葉はとうてい見つかりません。絶望の淵に立たされている人々に向けて、何も出来ない自分の無力さを、もどかしく悔やむしかない自分を恥じ入るばかりです。自分を責めて免罪にしている訳ではありません。被災された方々の哀しみと絶望に、何らかの光明が射し込むのをひたすら祈るしかない自分を情けなく思うばかりなのです。

 今年ほど桜の花が似合わない季節はありません。ことに寒かった冬が終わり、やっと陽光射し込む春がそこまで来ていました。桜の花も蕾を膨らませ、今を盛りに花開き世の中を明るく開く先駆けを務めるはずでした。その華やかな桜の花は華やか故に、今の日本にはそぐいません。明るい花を見れば見るほどに、花の隙間の彼方には哀しみの空しか見えて来ません。

 寒い被災地のことを思うと、この春は気温が上がる春の季節はやってきても、桜の花はまだ咲いて欲しくありませんでした。桜の花よりも、希望の光明のともしびが灯ることが先なのです。だから、花を愛でる気には今はなれません。花を見ると元気になれると現地の方がおっしゃるのなら分かります、しかし、被災者の哀しみに共感できず、無責任に元気を出さないことが悪いようにおっしゃる方とは一緒になれません。ものが足りてもいず、哀しみの傷が癒えてもいない方に元気を出せと言うのは無神経すぎます。元気な言葉で励ますのではなく、被災者が元気になれる何かの提示が必要なのです。悲観的なことを書き過ぎていることは承知しています。ただ、うわべの言葉で励ますことの方がもっと罪深いことも承知しているのです。被災地の方々に春の兆しさえ見えない現状では、花に浮かれることよりも、継続的な物心両面の支援を優先すべきでしょう。

 大学のサークルの先輩から東北に住む先輩の安否のメールが届きました。釜石に住む大学の先輩は危機一髪で津波にさらわれるところだったそうです。テレビで見ていた画面が一気に身近に迫りました。危うく難を逃れられたとのことでご無事だった事を喜びました。何らかの支援をサークルでもする動きがありましたが、個人の配送はかえって物流を混乱させるので公的な支援のほうで当分はやってくれとのことでした。

  宿のほうも、設計の北里さんによると建築資材で手に入らないものが出てきたそうです。震災地に回すのを優先されているようらしいとのことです。この先どうなるか分かりませんが、まずは震災地の復興に回すのは当然のことですので、完成が遅れるのは仕方ありません。オープンについては今後の進み具合を待ちたいと思います。


 福島の原発は予断を許さない闘いが続いております。私たちの立つ地球に安全なところは無かったのです。安全と思いたがったのは分かりますが、地球は日々活動していたのです。このことは、地球のどこにいても危うさを隣り合わせに生きていくしかないと言うことです。儚さの出所はここにあったのです。退廃は人間の所為に待つところが多いのですが、儚さは人間のはかり知らないところを背景にしていたのでした。

 しかしながら、人は懸命に人のために闘っています。原発にも、救援にも、避難所にも、物資の運送にも、医療でも、行政でも子供も、ボランティアもそれらを支える家族を始め、あらゆる人々が人のために闘っています。もちろん被災された方々がもっとも過酷な闘いを強いられています。人は人のためにともに闘うことで、儚い地球を堅牢な地殻へと築いていくのかも知れません。人はやはり強いのです。そこにやはり希望の灯はあるのです。

 九州の地において私たちに出来ることは、今現在の支援と同時に、今後数年はかかる復興に、なにがしかの側面からの支援でもあります。まず、日本の経済の底上げをはかる必要があります。産業面はもちろんのこと農業・漁業・観光等あらゆる分野での疲弊が予想されます。暫くは慶事ごとの自粛は当然としても、なるだけ早く以前の生活に戻していくことも大事なことです。私たちが、生活を控えすぎるとそのことが被災地の方々の生活の向上にはつながりませんし、ひいては日本の景気にも影響を及ぼしていくはずです。不況という波の襲来を被災地から守るためにも、私たちが活発な経済活動をすることも遠回りではありますが課せられた責務ではないでしょうか。

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  23年3月29日

 
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2011年03月16日

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           佐賀市役所1階ロビー

 前回に続いて地震のことを書こうとは、それも我が国の悲惨な状況を書かねばならない天の配剤の酷さを恨みます。まずはお亡くなりになった方々に謹んで哀悼の意を捧げますとともに、多くの行方不明の方が一刻も早く助け出されることを祈り、被災された方々へお悔やみ申し上げます。また、被災地において救援活動されている皆さま本当にご苦労様です。

 収まるどころか被害の状況が深刻化するにつれて、いたたまれない気持ちは哀しみに代わるばかりです。そうはいっても、今現在この時に苦しんでいる方々が多くおられる中で、離れた所から被害の状況を見ただけで嘆き悲しんでも何の力にもなれません。何かをやらねば、何かの力にならなくてはという気持ちを、具体的に行動に表さなくては所詮無責任な傍観者の態度にしかすぎません。もしそうであったら被災者にとってはよけい酷い仕打ちになります。何か少しでも助けに、力になりたい気持ちは、ほとんどの日本国民が共有しているようです。こういうときに他人事のように振る舞っている人は幸いなことにいないようです。大半の国民が、被災地の人々の苦しみや悲しみに寄り添い、心を一つにしていることが何よりの励ましになるはずです。このことが出来れば何はさておいてもやらなくてはならない、地震の被害に対する支援の輪は広がるはずです。

 海外から日本の震災に対する、被災地の人々の規律ある行動や助け合い、また全国からの支援の広がりを報道では賞賛しているようです。私たちは自国の人だけでなく、苦しんでいる人に対して人として手をさしのべる事は倫理観としても心情としても当然のことなのに、それを賞賛されることに、気恥ずかしさを覚えます。確かに略奪が横行したり無秩序な行動をする人はほとんど見かけません。こういう悲惨なときにはどういう行動をするかは教えられなくても、どう行動するか、どう振る舞うかは自然と育っていた日本の風土、被災地の人々の行動は誇りに思える事です。被災地の人々が互いに助け合って必死に生きようとしている姿は頭が下がるばかりです。どうか、救援の手が届くまで支援の物資が届くまで元気でおられることを祈らずにはおられません。

 今回の地震は残念ながら日本の半分が被害を受けそうにまで広がっています。発生から五日経ってもまだ余震は続いています。安全といわれた原発までも甚大な被害を受け放射能汚染が広がる最悪の事態になりつつあります。原発を進めた人の責任を責める議論は後回しにしてでも、今は被災者の救援を最優先に、政治家のリーダーシップを国民の生命・安全を付託された者として発揮して欲しいものです。日本という国の危機を迎えている今こそ、政治家も経済界も自治体も国民もともにこの未曾有の困難に対処していく必要があります。政治家は被害を最小限にとどめる使命を果たしていく決意が必要です。国民は支援に対する適切な指示を待っていますし、誰もが協力する用意と行動に応じる備えを持っているはずです。一回物資を届ければ義務を果たしたとか、自己満足的な思いで義援金を届けたとか、想像をはるかに越えた今回の大地震の被災者を前にして誰もが思っていないずです。いずれ街は時間がかかったとしても復興していくでしょう。しかし、亡くなられた方々はどれだけ時間が経っても残念ながら帰って来られません。この深い悲しみはいつまでも消えることなく遺族の方の胸に残る事を私たちは忘れてはならないはずです。そのためには、被災の方々、被災地が復興を遂げるまで一過性の支援ではない支援の輪を広げていく必要があります。

 やっと次男は希望の大学の合格を得ることが出来ました。1年間の忍耐と努力が実り喜んでおります。指導していただいた塾の先生や健康で受験勉強に励めたことに感謝しております。持っている力を自分の力で引き出させるという塾の過酷なまでの厳しい指導には、現在の学校教育にはない教育の本質を見た思いがします。せっかくの合格でしたが、喜びの気持ちに代えて、被災者に対するささやかな義援金と支援物資を佐賀市役所まで届けてお見舞いとしました。

 小国には行ってまいりましたが、宿のことをゆっくり考える気にはなりませんでした。夜の星は美しく澄んで輝いていました。夜の星が美しく輝けば輝くほどに世の無常、儚さ酷さを覚えずにはおられませんでした。前回も書いたように、儚さの先の希望を信じて生きるためにも、被災者への支援の輪の広がりを、暖かい応援の輪を広げる活動をしていくことを強く思いました。夜の闇の向こうに辛く哀しい被災者の方が、真冬のような寒む空の中で耐えられていることを思うと心穏やかでおられるはずがありません。すべてをなくして打ちひしがれておられる被災者の方々の希望の灯をともすことが、これからの私たちに課せられた大きな務めではないでしょうか。

 哀しみの感傷に浸るのはたやすいことです、しかし被災者の人たちには何の助けにもなりません。今は、感傷や同情ではなく求められているのは、具体的な支援のあり方のはずです。私たちは第三者ではなく国民の誰もが当事者としての自覚を認識する事が大事なはずです。この国において間近であったはずのあらゆる春の訪れは無惨にもうち砕かれてしまいました。古天神の窓から見える向こうの山の景色にも、情緒的な春の気配はいっさい消え去り、目に映るのは哀しげな樹木に、枯れ草が力無くうなだれる、荒涼とした冬のままの景色でした。


        23年3月16日

 







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2011年03月02日

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          花梨の花の蕾

この冬は本当に寒い冬でした。ここ九州でさえ最高気温が5度以下の日も続き、北国の生活の皆さまの過酷さを思い知らされました。皆さんはこの冬をどのような思いで過ごされたでしょうか。余りの寒さに室内で閉じこもり、または朝の寒さに起きるのも辛い毎日だったのではないでしょうか。そんな気候の中、寒い外での仕事の人には、ご苦労様と胸の中で唱えずにはいられませんでした。やっと3月の弥生となり日射しにも暖かさが感じられると気を許し始めたところ、また寒波が戻り、まさに三寒四温の季節となりました。これまでは緩やかに春が近づきつつ、春の足音が一歩一歩と季節が巡る感じでしたが、今年は気温の変化が鋭角に変わっていくのが気がかりです。季節が角張って緩やかさを失い、おおらかさとゆとりを失った、まさに人々の有り様を反映したような季節の変わり目を、少し気にかかりつつ春の初めを迎えています。

 中東ではたちまちのうちに抑圧された民衆のうねりに国の形が変わっていっています。独裁が続いていても、長く続くとその国の態勢に無自覚になっていた世界の秩序の認識に、警鐘を鳴らされているような気がします。またニュージーランドではいきなり地震の惨状に見舞われ、いまだ被災者の身元も分からないことに深く心を痛めます。特に安否不明の多くの若者が
19歳であることがむごさを引き立たせています。高校を出て、夢の実現を目指して語学研修の為の勉学の最中に、地震に襲われることは無念でならないはずであり、被災のがれきの下で右足の切断を告げられた奥田さんの思いは、想像を絶するものがあります。

 そのような厳しい世界の現状の中で、国内では政治家たちの国民を愚弄したような、ふがいなさには呆れるばかりです。国民の為とは口実で、自分たちの党利党略でしか動いていないのが、国民の誰もが気づいている事に、気づかない政治家たちの見識の低さには情けない限りです。もっと、格調の高い振る舞い行動、議論をやってくれれば、仕事や生活の労苦、困難に歯を食いしばって耐えている国民も救いがあるのに、これでは国民が政治家を見放すときが来ることを覚悟して欲しいものです。

 春はそこまで来ています。冬が寒ければ寒いほど春を迎える喜びが深いとは、北国の事と思っていたら、ここ九州でも今年は春を待ち望む気持ちがひときわ高いものがあります。春の到来を皆さまは何でお感じになりますか。気温のゆるみは肌で感じます。日差しが長くなっていることも春の証です。街ゆく女性のファッションにもパステルの色彩が多くなりました。私たちが春を待つように植物も春を待ち望んでいるようです。庭の木々は蕾を膨らませています。新緑の蕾であり、花のつぼみでもあります。社会人の蕾である高校生も卒業の季節を迎えました。長い冬の寒さを物言わず耐えてきた庭の木々の蕾を見ると元気をもらえます。何故なら、これから始まる様々な荒波に、今出て行こうと必死に頑張って葉や花を開こうとする蕾に、樹木の生命のエネルギーが蓄えられている姿を見るからです。寒さに耐えた蕾は春が来て花や葉を咲かせます。季節が間違いなく巡ることを予感して蕾は膨らみます。

 しかしながら、NZランドでは蕾の開く夢を絶たれつつある多くの人ががれきの下にあります。残念でなりません。19歳はまさに人生の蕾です。送り出した家族の悲嘆は言葉に尽くせません。しかしながら、NZランドで若者が夢に向かう姿が人生の蕾の姿とすれば、そのことは私たちが学ばなくてはならないことであり、若者達の意思を継いでいくことではないでしょうか。どう継いでいくかは、それぞれ私たちの課題と言えます。

  春はそこまで来ていますが、春の訪れが誰の上にも必ず来るとは言い切れないのがこの世の定めであり、儚さでもあります。人生の酷さ・儚さは誰の上にも宿していることだけは哀しいかな公平です。庭の木々の蕾も鳥のくちばしでかみくだかれたものもあります、明日の見えない儚さは人間も植物も同じです。ただ、この冬の寒さも遠からず去ってゆきます。また、儚さ酷さの先にも、必ず希望の光はまた灯る事を信じて生きていけるのが、人間の強さでもあります。

 暫く古天神の様子をみていません。多分冬の季節のままに違いありません。しかしながら、その寒い風の中でも蕗のとうは芽を出して膨らみ始めているはずです。雪残る冬の土から顔を出す植物の力強さも私たちを元気づけてくれます。次男の受験との闘いも未だ続いております。1年間の努力に報いがあればと願うばかりで、春の訪れの遅さにもどかしさが募ります。蕗のとうが一面に出ている宿の山を想像しながら、古天神に晴れ晴れと行ける日を楽しみに待ち続けています。


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              桜の蕾      
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              サクランボの花の蕾
    
    23年3月2日



 







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2011年01月26日

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ここ十数年の暖冬に慣れた体には、この冬の寒さは体にこたえます。皆さまはこの寒い冬をどう過ごされているのでしょうか。日本海側の雪も異常なまでの降り方で、雪に慣れた北国でもさすがに今年の大雪にはご苦労されているようです。テレビで見る雪に覆われた街には高齢の方も、病弱な方も、センター試験を受ける受験生もおられるだろうに大丈夫だろうかと心配していました。
 
 九州の人間にとって雪は、虹や積乱雲を見るようにあこがれの自然現象の一つでした。雪が降ったからといって、少々交通が混乱するくらいで生活に大きな影響が出る心配はしていませんでした。むしろ、雪が降るとわくわくとして外で遊んでいたものでした。日頃見慣れている田畑や家並みの景色が一夜にして真っ白な雪景色と変わるのです。雪そのものは冷たいのですが、雪の景色は人の心を暖かくする不思議な力を備えていた気がします。雪がふんわりとすべての物を包んでしまい、現実の醜さをほんの暫く隠していたためかも知れません。

  昭和の30年代まではここ佐賀においても冬になると雪は降っており、山間部では30センチ以上の積雪もみられました。母の実家が富士町の北山であるために、小学生の頃の冬の里帰りは、亡くなった叔父の手づくりの竹スキーをするのが何よりの楽しみでした。孟宗竹を縦半分に割り囲炉裏の火であぶってL字形に曲げたものでした。両足を竹の上に載せただけのスキーだったため、雪の斜面を下まで真すっぐには滑らず、必ず途中で転んでしまい雪だらけになっていました。当時の冬は今以上に暖房器具もなく寒かったはずですが、寒い想い出よりも夢中で雪の中を遊んだ想い出しかありません。ゲレンデでスキーをしたいと後年思うようになったのは、小学校低学年の北山での竹スキーの体験が体の中に眠っていたためかも知れません。本格的にスキーをするようになって、あの竹スキーは丸い竹の筒でエッジが無かったのであんなに転びまくったのかと納得したのでした。

 以前の凍てつくような冬を知ってる者にとってここ数年の冬は、物足りない冬でした。寒い冬はこの年齢になりますと結構体に負担になります。しかしながら、四季の風情を昔々から代々、体の中に受け継いでいる私たちにとって、冬が寒くなく雪も降らないのは、陽光溢れる桜の季節を待つ喜びが半減しますだけでなく、このままでいいのかと足下からひんやりした不安に襲われます。

 振り返れば昨年の夏も尋常な暑さではありませんでした。この冬も本来の寒い冬に戻った訳ではなく、気象異常による寒さのようです。暖かい冬を知った者にとって、元の寒さには戻りたくないかも知れません。しかし、私たち人間の暮らしが、雨や光や水や風や植物・動物の力で循環させていた地球の大自然を歪ませているのであれば、元の季節の姿に戻していく意識を私たちが持たなくては、季節の狂いだけでは済まないことが私たちの子供や孫の世代に及ぶおそれがあります。夏の暑さもこの冬の寒さも、地球の大地が、私たちにもう一度暮らしを考え直すように気づいて欲しくてシグナルを送っているのかも知れません。

 センター試験も済んだし、古天神の打ち合わせに行きたいのですが忙しい用事が山積していて行けないでいます。また、昨年よりは総合点では伸ばしたようですが、次男にとっては苦手とする国語が思うように点を取れず、志望校を迷っていますので願書を出すまでは落ち着きません。
 
 設計の北里さんによると今年は小国町も相当寒いようです。雪も多く降り山の陰は、ノーマルタイヤでファームロードを走り古天神までは近づくのは危険なようです。残念ですが、雪が多く降るとお客様は宿まで来られなくなります。雪の宿ではせっかくの雪景色をお楽しみ頂きたいのに、私たちだけで雪景色を眺めなければならないのは、勿体なくもあり寂しくもあります。仕方ないので、竹スキーでも作って雪の斜面を転げながら滑り、「雪のテラス 古天神」で冬の月でも眺めます。

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 先ほど設計の北里さんから「雪のテラス 古天神」の写真が届きました。想像以上に雪が積もっており驚いています。雪に埋もれてしまっている宿も冬の楽しみとします。
                      23年1月28日   
posted by 風のテラス 古天神 at 15:56 | Comment(0) | 風のテラス便り