2013年03月21日

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トロントの街並み
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教会
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街並み
 
小国町は県外からの移住者を歓迎しています。残念なことに地方の田舎の特徴でもありますが、町を離れる若者は多いらしく人口の中で高齢人口の割合が高く、人口も減少しているようです。若い者が居ない町は活気に乏しくなりますし、経済の発展も望めなくなりますので町の施策で小国町への移住者を迎える態勢を取られているようです。その町の産業の形態により人口の流動化は避けられないものがありますが、国内では都会に出ていく若者が居る一方で、都会の生活より田舎暮らしに魅力を感じて移り住む人々も増えています。私もその一人で小国の自然と人々の人情に魅力を感じて生活を始めました。ただ、日本では村落共同体の名残の身内意識が強すぎるため、外部の人間に対し遮蔽した壁を作るきらいがありました。その中で地方の小都市の小国町が外部の人間を取り込もうとするのはある意味で画期的なことでもあります。他からの異文化を受け入れる事により町は活性化していくはずであり、活性化させるための刺激的な風を外からの人間は運ぶ役割も担っているはずです。純粋すぎる風土は時に息苦しさを感じます。異質な人間を教室や職場の中から排除しようとする学校や会社のいじめ等も、風通しの悪い日本の風土が土壌としてあるのかも知れません。

 長男の留学先であるカナダのトロントに、半年の語学留学を終えるのに合わせて観光をかねて次男と家内の家族三人で行って来ました。カナダという国は大自然が豊であるという以外はそんなにイメージが浮かばない国でした。ホテルに着いて夕食の店に案内された町の人々の様子にびっくりしました。白人を主体に黒人や中国、韓国 東南アジア、中近東、南米、ヨーロッパ等多様な人種の人々により形成されていることが判明しました。イギリス連邦の新しい国家であるために多文化主義を国の基本政策とし、移民政策を採っているのでした。日本のようにほとんど単一民族の国の人間からすれば、街を歩いている人々の顔ぶれの多彩さにまず驚き新鮮さを感じました。外国人であるだけで目立つ日本と違って、すべてが外国人で成り立っているカナダは、多種多様な文化が当然の国でした。外国人であることは全く注目されません。様々な文化が錯綜する多文化の国では、異なる文化を受け入れどこかで折り合いを付けなければ生活をしいていけません。雑多な生活様式を統合しながら国の気風を醸成しているようです。個人の主体性とアメリカのような自由を尊重するスピッリツを国家の形成の土台に据えた国造りをしているようです。

 息子のホームステイ先のペアレントもフイリピンからの6年前からの移住者でした。息子を本当の子供のごとくに扱ってくれて、挨拶に出向いた日にホームパーティを開いて歓迎してくれました。同じアジアのフイリピンのファミリーから手作りのご馳走と歓待を受け、カナダの開放的な生活様式と暖かいもてなしに感銘を深くしました。息子の話し相手も務めてくれていた小学6年生の女の子は、物おじせず明るく活発な娘さんで、カナダ人として成長してる姿が見えていました。20代半ばの娘さんも日本からの来客を苦にすることもなく歓迎してくれました。ホームパーティ等に慣れていない、英語も喋れずむしろ不安を覚えながら出向いた私たちを安心させる気さくなホスピタリティーにお客様をもてなす自然体のあり方を学ばせてもらいました。観光地を見るだけでは決して知ることが出来ない、その国の暮らしの一端と異国の人々の生の生活をかいま見ることが出来た事に海外旅行の大きな収穫を得ました。

 市電のような電車から見るトロントの街並みはどこを見ても異国情緒に溢れていました。カナダ最大の都会であるため都心部は近代的な高層ビルが建ち並んでいましたが、一般的な普通の民家は古風な煉瓦作りでヨーロッパの趣を呈しているのを感じました。イギリスやフランスが統治を争った国であるために自ずとヨーロッパ的な街の作りとなっていました。建物群の中に際だっていたのが空に尖塔を突き出して立つ教会の存在でした。街の至る所に教会が存在しており、雑多な文化の人々を繋ぐ信仰の役割の大きさを感じました。石造りの街並みを歩き、様々な人種の人々の表情や異なる言語の溢れるトロントの街には、新しい国ならではの進取の気概と雑多ならではのたくましい国民性を見る思いがしました。この旅行でもっとも期待をしていたのがカナダの料理でした。日本では味が一律で工夫の施されていないファミレスには呆れていましたが、どの料理も大胆でありながらきちんとした味の工夫がされている料理には感心しました。平凡なナンのようなパンにも、焼いた肉にも、サラダのドレッシングにもスパイスが多用に利かされて味にアクセントがあるのが分かりました。エスニック系の人々の料理の影響を強く受けているようです。日本と違って盛りつけ等は無頓着であり、繊細さには欠ける面もありますが味に関しては雑多な文化の味が反映しており、どの料理も不味いものはありませんでした。むしろ、日本では見られないような個性的な味を出している料理の数々を舌の上に印象づけられました。

 ロイヤルオンタリオ博物館に行きました。寒い中子供連れの家族や団体が行列を作ってチケットを買っているのです。退屈しそうな箱ものには余り興味がなかったのですが、家族の希望で行きました。館内の展示方法も日本と違ってリアリティがあり、また子供達を飽きさせない、アクティビに参加させる仕組みが至る所に見られました。子供達は活き活きと見学しているのではなく参加しているのです。親や大人達も子供を管理するのではなくのびのびとほったらかしのようにしていました。日本では館内は静かに行儀良くという観覧の仕方が主流ですが、まさに館内はいい意味での遊園地のような賑わいなのです。博物館に大挙子供達が押し寄せているのに驚嘆しましたが、その子供達の奔放な振る舞いにこの旅行でもっとも感嘆しました。低迷している日本の教育の姿の原因を見たような気がしたのです。カナダには国を発展させる未来の子供達が育っていることを実感しました。

 長年代々にわたって住み継いできた佐賀の町を出て、農家の長男である私が小国の町に行くことには罪悪感に囚われていました。熊本という隣り県に住むことさえ抵抗があったのに、カナダでは国を遠く離れて祖国を出でて新しい国で生活を一から始めるのです。伝統や歴史を重んじる人間にとってはカナダは浅い文化の国と映るかも知れませんが、最近の伝統ある国々の凋落を見ていると歴史の長さが国の価値を決める時代ではないようです。トロントでの短い滞在を通して異国の人々を受け入れる多文化主義はここ小国での生活の中で参考になりました。外部の人間を許容していくキャパシティの大きな寛大さを、このような地方の小さな町から発信していければと大きな夢を抱かせるカナダのトロントの旅行でした。もし、小国の次に移り住むならトロントというくらいに、世界2位の国土の広さを持つのと同じくらいに異国文化を受け入れる大きな街のキャパに魅力を感じました。
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オンタリオ湖のハバーフロント
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CNNタワー
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ナイアガラ瀑布
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ナイアガラフォール
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ナイアガラの近くのタワーからの瀑布

25年3月21日

 古天神 井崎



 





 
posted by 風のテラス 古天神 at 16:38 | Comment(0) | 風のテラス便り

2013年03月02日

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今、宿は枯れ草色に覆われた冬枯れの景色の中にあります。決して美しい景色ではありません。春や秋の景色に比べれば、むしろどんよりした冬の山の単色の中に沈んでいます。ただ、そうであるからこそ、まだ見えない芽吹き春の想像力がかき立てられます。春となり新緑を迎える対岸の山は、窓一杯に緑の光景が広がります。押し寄せてくるようなきらめく緑に圧倒されそうになります。目の前にはないまだ見られない季節の景色は、想像力の力があれば味わえます。しかし、どんなに素晴らしい景色を眺めていても、長く見ていると飽きてくることがあります。私が心配したのは宿からの景色にいつかは飽きてくるのではなかろうかということです。眺望のいいところからの景色は眺めているその時は感激していても、何回ももしくは長く見ていると次第に見慣れた景色となってしまい最初に見た景色ほどの感激は湧いてきません。たまに訪れたりたまに見るから、新鮮さは持続しているはずです。もちろん季節が違えばいくらか見え方は違うでしょうが慣れてしまうと最初のような印象は薄れていきます。

 人は贅沢ですが倦むことからは逃れられないようです。景色にも音楽にも料理にも、飽きが来ます。流行の変遷は人がものに倦むから生じるのかも知れません。沢山のCDを持っています。聞き始めた頃は飽くことなく何度でも聞いた音楽がいつの頃からか次第に遠ざかってしまいます。たまに取り出して聞いても以前のような感興が起こらないのです。耳が慣れてしまい新鮮味に欠け心が躍らないのです。この宿に来て音楽から遠ざかる事が時々あります。音楽がなくては生きていけないほどの人間だったのですが、音楽を聴かなくても過ごせるのです。音楽に心が向かないゆとりのない時でなく、春から秋の小鳥の囀りの多いときに窓の外の音を聞きだしたらCDの音楽が要らない事もあるのです。CDの音楽は何度も聞くと倦みやすいのですが、小鳥の囀りは飽きが来ないのです。どんなにいい曲であっても、どんなに音楽理論に乗っ取ってアレンジを重ねて作られた曲であっても、絶えず微妙に変化している、そんなに鳴き声が良くもない冬のヒヨドリの囀りの音色にも及ばないようです。

 ご飯は飽きが来ない食べ物です。ご飯には味が付いていません。味が付いていないのに飽きが来ない、味が付いていないからこそ飽きが来ないのです。では、何故何十年と食べ続けて飽きが来ないのでしょう。それは副菜のおかずに変化を付けているからです。米のご飯だけを食べ続けると多分飽きが来るはずです。どんなに高額で珍味で味の複雑な料理でも同じものを食べ続けると飽きは早く来ます。飽きの来ない料理を作り続けることは難しいものです。味の付かないご飯は飽きが来ません。味の付いたおかずは飽きが来ます。ここのところにお客様に飽きさせない料理を提供する工夫の余地があるようです。家庭料理は飽きが来ないといいます。そんなに高価な素材を使ったり、調理に時間を掛けたりしていません。しかし、料理の最後は家庭料理に行き着くのです。だから、たまに食べる料理は凝った料理を食べて美味しいと喜び満足するのですが、落ち着く安らぐ料理は家庭料理なのです。

 しかし、旅行とは非日常であるからこそ楽しみもあり魅力もあるはずです。そこにはなるだけ日常を排除した空間を提供しなくてはなりません。たまに泊まりに行く旅館で家庭料理を出されたのでは、いつも料理を作っている主婦は喜びません。家庭料理がもっとも飽きられない落ち着く料理といっても、旅先では当然家庭の味でない料理が求められます。毎日家で生活を営みながら食べる家庭料理は飽きません。しかし、旅先ではいつもと異なった料理を食べたいのです。その異なった凝った料理は凝った味故に飽きもすぐに来るのです。旅行に出て人は元気をもらいたいのです。また、日々の仕事や生活を抑制しながら送るためには、日常とは異なった空間に身を置く必要があるのです。あくまでも、日常が主であり旅は非日常なのです。だから、早く飽きの来る凝った料理はたまには食べるだけで十分なのです。このことは日常と非日常を交互に繰り返す人生のようなものです。人生に飽きが来ないのもここにあるのです。

 宿からの景色に飽きが来ないのは、季節により光景の色彩が変化するためです。CDの音楽よりもヒヨドリの囀りに飽きが来ないのは、絶えず一定ではない動きのある鳴き方をしているためです。飽きの来ない家庭料理は副菜が毎日変化しているためです。毎日の生活に飽きが来ないためには非日常の空間にたまに身を置かなければなりません。他人から飽きられない人になるためには、時代の変化の音を聞く体内の耳をいつまでも研ぎ澄ませておかなければなりません。若い人でも年を重ねた人でも現状に満足している人には魅力を感じません。何も時代の流行を追うのではありません。流行の先にあるものは忘却でもあるのですから。飽きられないとは絶えず新鮮な変化の風を吹かせることと、想像力を膨らませるどのような工夫をしているかということです。人間の持つどうしようもない性の一つでもある倦むことの克服はそこにあるのです。

 空を裂くヒヨドリの鳴き声は、ついつい現状に安住しそうになる我が身に警鐘を鳴らす鳴き声でもあるのです。
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25年3月2日

古天神 井崎 
posted by 風のテラス 古天神 at 15:53 | Comment(0) | 風のテラス便り