「田植えさん」
6月となると雨が続きます。そろそろ「ながせ」に入ったぱいと祖父が会話をしていました。「ながせ」「長雨」とは佐賀弁で雨のことです。農家にとっては梅雨はなくてはならない季節です。水の管理は死活問題で一晩中田に水が溜まるのを親父達は機械揚水になっても見守っていました。
苗床から天秤担きした苗を田に運び、田に投げ入れていました。そこには数人のもんペ姿の田植えさん達が腰をかがめて田植えをされているのです。すべて手作業で真っ直ぐに苗が1本1本植えられて行きます。多分その光景は江戸時代から続いていたはずです。田植の後、行儀良く並んだ緑の苗の田園は見事でした。
昭和40年代は耕耘機が導入され初めていましたが、親父達は今のような田植だけは手作業が複雑すぎて機械化は無理だろうと話していました。どこの農家さんも集中してやる田植えは数人の人の手がないとやっていけない農家の大行事だったのです。
そこで、我が家もこの時期だけは女性の「田植えさん」が来られていました。数日間は我が家で寝泊まりをされていましたので、母は朝食だけで無く昼も夜も食事を用意しながら自分も田に出ていたのを覚えています。父も忙しかったはずですが、母は家事をやりながら田もやるとんでもなく忙しかった時期だったはずです。
農家は似たり寄ったりの苦労が多かったはずです。手配師さんの紹介で「田植えさん」達は主に柳川方面もしくは田植えが早く済む山間地から見えていたようで、我が家が済むと他の地区に移られていました。1日中腰をかがめての重労働を何日もやられていました。その方々もいつの間にか来られなくなりました。
農作業の機械化は予想以上の速さで進みなんと田植えまで機械化され「田植えさん」達が不要となったのです。正に手塩に掛けて米を作っていたのです。だから、祖父は米一粒を大事に粗末にすると罰が当たると言ってました。
それほどに米を大事にしていた頃は農業が国の中心であり農協も元気があった時期です。米余りの現状からすれば遠い時代のようですがほんの数十年前の事です。米が農業が国の根幹である、それに深く携わっている農家・農協がもっと元気になるように互いに共同の力を強くして行きましょう。
理事 井崎秀樹