2013年06月09日

気仙沼

 皆さんはどんな思いの時に旅に出たくなるのでしょう。学生時代はあふれる好奇心の衝動に突き動かされてあちこちを見て回りました。すべてに対し真っ白な未知の頭の中を、旅をすることで体験を増やし空白部分を埋め尽くしたい欲望が渦巻いていました。自分の中に知らない所が在ることに対する不安と劣等感が、好奇心となって出ていたような気がします。そのため若いときの体験は失敗も含めてすべてが後の養分にはなったようです。社会人になってからは日頃の仕事上のストレスから逃れたくて旅行に出ていたようです。旅の大半は日常からの解放にあるとも言われるのはそういう意味で実感としていました。しかしながら、東北を旅してこの考えは甘いというのが分かりました。3・11以降ずっといつかは東北へ行こうと思い続けていました。長男は被災の半年後にボランティアで気仙沼に行き民家からの泥出しをやってきていました。6月は次男の広島に行く予定でいましたが、東北に行っていない次男からの提案もあり長男がボランティアをした気仙沼に行くことにしました。

 佐賀から特急と広島で新幹線に次男と合流し東京で東北新幹線に乗り継ぎ、仙台に付いたのは午後の5時近くになっていました。仙台では牛タンを賞味し、翌日仙台からレンタカーで気仙沼まで走りました。長男は大学の学生ボランティアに参加するために別府からフェリーで大阪まで行き、バスを乗り継いで気仙沼まで行ったようです。新幹線でも長旅なのにバスでの大阪からの長旅は若いからやれたのでしょう。気仙沼に着いたとたん目に飛び込んできたのは、1階部分が柱だけを残してむき出しになったままの家やビルでした。目に見える形で被災の跡が残っているのは片づけが進んでいるために少なくなっていました。観光支援という形の旅行であるために気仙沼港の近くに建てられている復興食堂の屋台村の魚介丼で昼食を取りました。何軒かの店に土産を買うためにのぞきましたが、こちらがささやかな支援のつもりで行ったのに、店の女性から「来ていただき感謝しています、ありがとうございます」と声をかけていただきました。激励するつもりで出かけたのに、被災地の方から最初に感謝の言葉をかけていただき、胸の中を熱いものが流れていきました。

 気仙沼から津波の被害地を見るためになるだけ海岸沿いを松島に向けて車で走りました。途中道路が寸断していて迂回の工事が至る所で行われており、また三陸鉄道の線路もあちこちで流され生々しい傷跡を見せていました。ただ、3・11の悲惨な状況をテレビで見ていたので現在の現地の様子から壊れた家もなくがれき等も片づけられ被災の実態を見ることが出来ませんでした。しかし、南三陸町に入って行くと何もないのです。現地の人に案内してもらったり予備知識が無くていきなり行くと何が何か分からないのです。何故かというと、街全体が無くなっているのです。家の基礎の部分が一部残っていたり、生活をしていた痕跡の破片があるくらいに一面草の生えた平坦地になってしまっているのです。家が無くなり商店が無くなり生活が流され、人が亡くなっているのに被災直後とは景色が変わってしまっているのです。想像力を働かせないと被災の実態に近づけないのです。その何もない平坦な地に鉄骨ばかりの建物が残っていました。なんと、そこが多くの人が津波の被災から逃れ助かるためにに避難して来た防災センター跡だたのです。佐賀では津波の高さが想像できないでいたのですが、建物の3階部分まで水が押し寄せ屋上の一本のポールに捕まってほんの数人の方が生きながらえ、多くの人が犠牲になった防災センターだったのです。今でも沢山の花束が捧げられ祭壇のようになっていました。手を合わせてご冥福を祈っていると、何台かの車が来ていました。

 日常からの解放を旅に出る理由を甘いと書きました。東北の被災地に行くと日常を営んでいた街がいっさ無くなっているのです。日常からの解放と言えるのはあくまでも日常を過ごせる街や家や家族が在ってのことだったのです。あの震災以来「ふるさと」の歌がよく歌われているのを耳にしていました。被災と「ふるさと」の曲が私の中で結びついていなかったのですが、あの南三陸町の何も無くなった街が在った場所に立って、歌われている意味が分かりました。街が無くなりそれまで暮らしてきていた「ふるさと」が消滅していたのです。都会に出て故郷を懐かしむ歌と理解していましたが、今歌われているのは田舎に残してきたふるさとではなく、被災した人たちの胸の中にしか残らない消えた街だったのです。多くの人は日常の解放された旅を楽しむのですが、それはあくまでも日常を営む生活の基盤が在って、もっと広い日常の中のささやかな日常に対する不満だったのかも知れません。

 東北の被災地の現地に出かけてみないと先に進めない負い目のようなものを抱き続けていました。何度も足を運ばれて復興支援を様々な形で今でもされている方々がおられます。ボランティアや無償の活動をされている方に対しては自分の無力さを恥じていました。また、被災された人々に寄り添いつつ直接の援助をしたり支援をされている人々には頭が下がるばかりでした。本当なら被災された方に直接話をお聞きし、被災の実態の一部でも共有できたらよかったのでしょうが、今回は観光支援という形でも大歓迎という話を聞き家族で出かけました。帰りの仙台駅で、地元の特産品を販売されている方が、震災を「忘れられることが一番怖い」と話されたことがもっとも印象に残りました。ともすれば、日常の生活に追われだして東北に目を向ける機会が少なくなっていることが日本全体の中で感じられることが気になっていました。まだ東北は道半ばであるし、福島の原発も収束にはほど遠い現状があるのです。被災地以外の地では日常の基盤が保障されているのですから、日常の基盤そのものを無くされた被災地に対しては今後とも何らかの支援の継続はしていかなければならないことを痛感した観光支援の旅でした。
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 南三陸町の防災センター


 25年6月9日
 古天神 井崎

 




 
posted by 風のテラス 古天神 at 13:38 | Comment(0) | 風のテラス便り
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