2013年07月15日

餅とうきび

 夏野菜の畑の周りにぽつぽつと母はとうきびを植えていました。前年に種となるとうきびを数個納屋の隅に確保していたのです。4月の末頃に種を植えたら7月の終わり頃には茎が大きくなり数個のとうきびが実を付けていました。手のかからない植物なので植えたらほったらかしにしていても数個の実は生っていたようです。大きい鍋で塩ゆでされた熱々のとうきびは外の暑い日射しを見ながら縁側で食べる夏の風物でもあったものです。固くてかみ応えがあり味も濃厚だったのです。今のコーンのように大きくはなく、その頃の農家で作られたとうきびは小ぶりで身の色も黒や紫や黄色が混ざっていたのです。それは餅とうきびと呼ばれるものであり以前の農家では当たり前の家庭用の品種だったのです。身が固く都会の消費には商品としては不向きであるため廃れていき、農家の畑から消えていきました。私も家庭菜園をするようになりとうきびを植えてみましたが味が水っぽくておいしくはなかったのです。とうきびの主流となっていたスイートコーンだったのです。見た目はいいのですが、もちとうきびの味を知っている人間には物足りないトウモロコシでしかないのです。

 トマトにしてもキュウリにしても昔の味はよかったと年配の人からは聞きます。30年以上も前になりますが、畑になっていたトマトを直に口にしたときのトマトの味は今でも口に残っています。最近になり野菜の本来の素材の味を生かした料理が注目されだし、野菜の素材だけで作った料理は高価で贅沢な料理となっているのです。土にこだわり肥料にこだわって育てられた野菜は野菜本来の味を取り戻しつつあるので、レストランによっては栽培農家と契約して仕入れを行っている店もあるようです。野菜本来の味が失われるようになったのはどうしてでしょう。かつての農家は有機肥料を使っていたのですが、都会の消費地に回すため促成で大量生産を余儀なくされ化学肥料を大量に使うようになり土が疲弊し、それに見合う品種の改良もされて薄い味の野菜が出回るようになったのです。野菜は本来山菜から品種改良されて栽培種として育てられた物や、ほとんどの野菜の原産地は世界中に散らばっているため、野菜の持つ特性としてアクもその野菜の持ち味としてあったはずですが、消費者が野菜のアクを嫌い個性をなくした水っぽい見た目重視の野菜が店頭に並ぶようになってしまったのです。

 教育の現場でも企業が求める人物像でもかつては個性の重視が叫ばれていました。個性を持った生徒を本当に教師は求めていたのでしょうか。他と違う考えの生徒を変な子と扱いにくい生徒と特別視をしていたのではないでしょうか。会社を創造的に発展させるために個性のある社員を求めていたはずなのに、集団の中に溶け込めない才能のある者を雇おうとしない現実がオーバードクターとして才能の持ち腐れを生んでいるのです。才能のある人間や個性の強い人間はどこかアクがあるのはあたりまえなのです。社会がスマートになっていくことは人間の持つ荒削りな部分を研磨し、鋳型にはめていく行程の部分を教育は担っていたのかも知れません。現場の教員はそのことなどを気づくはずもありません。建前では将来の有為な人間形成とか将来の国作りの礎とか立派なテーマを与えられているものですから、目の前の受験のための指導に明け暮れていれば教師の務めは大半が果たされていると勘違いさせられていたのです。生徒の持つ個性を特徴としてとらえ切れない限り教師のいじめの対応は鈍いままだし、個性をつぶそうとする体罰もなくなりはしないはずです。コミュニケーション能力が劣っているので博士課程の大学生の就職先が少ないなど残念な限りです。日本の企業の創造的な分野での競争力が落ち込んでいるといいながら、チームワークだけに頼る協調性を大学生に求めるというのは企業の体質に矛盾があるのです。創業者的な経営者が少なくなりサラリーマン的な経営者は才能のある一風変わった人間を育てる器量に乏しいのかも知れません。人事採用の視点を変えてむしろ、オーバードクターの院生を集めた企業はこれから発展していく可能性があるかもしれません。そういう企業が増えれば、大学院に進学して研究を続けようとする学生も意欲的になるはずです。就職が保証されない大学院に意欲的に進もうとする学生は増えないはずだし、日本の研究開発に携わる特異な才能を持った人物の能力を発揮できる場も提供できるはずはありません。

 直木賞を受賞した若い作家がテレビで発言していたのを聞いて驚きました。作家然とした作家にはなりたくないとのことです。いかにも文学者の風貌をした作家が嫌われたのです。私の年代では太宰や芥川や谷崎の風貌が文学者だったのであり、文学の価値が作家の風貌でもあったのです。文学の世界でもアクを持った風貌の作家は嫌われ出したのです。その若い作家の風貌はタレントかサラリーマン風なのです、というより、サラリーマンをやりながら作品を書いており若い世代には支持を得ているのです。その作品が文学作品として残るか残らないかというより、マスコミの寵児としてもてはやされることが文学作品としての価値よりも重きを置いているようにしか見えないのです。文学者はアクの塊のような人間です。普通の市民生活を送れない者が、もしくは社会生活と相容れない者が生きていく道が文学と言った作家も居たぐらいなのです。私も教師然とした教師にだけはなりたくなかった。遠くから見ても教師のにおいのするすすけたような教師にはならないように努めていました。現場に勤めていて分かったのは教師の威厳によりかかった教師がそういう姿だったのです。眼中に生徒の姿のない教師がそうだったようです。しかしながら、私のそれは生徒にまっすぐにぶつかりたい思いの教師像であったのであり、文学者ぶらない作家の存在をもてはやす社会の在り方に疑念を感じざるを得ません。

 人との摩擦を避けるために薄ペラな人間関係を好む社会となりつつあります。薄味の見た目だけの野菜が好まれ続け、やっとこの頃になり野菜の本来の味の深さに目覚めつつあるのに、野菜の持つアクも野菜の本来の味の一つとして認識が広がりつつあるのはまだ社会の中ではほんの一部の人の嗜好に過ぎないのかも知れません。社会を深刻な目で見ていた文学者の風貌が嫌われ、深刻な課題をさらりと流すようなアクのかけらもないような風貌の作家をもてはやす社会の方が、その作家にとっては他人に無関心でいられる住み心地のよい社会なのかも知れません。餅とうきびのかみ応えある味は作り手を意識できる野菜だったのです。キュウリのアクのある味はキュウリの個性だったのです。トマトをかじると夏の夕暮れが口一杯に広がる味だったのです。アクは想像力を掻きたたせるのです。アクのある人間は一つのことに埋没しながら毒も吐くのです。毒を否定した平板な社会からは活力も生まれません。毒を薬に変えていくような、野菜のアクや人間の個性を面白がるような社会こそが力強い人間が育つ土壌を作っていくのではないでしょうか。

 蝉や小鳥達は始終鳴き交わしせせらぎの音も絶え間なく流れ込む、標高700メートルのこの地でも今年の夏の昼間は相当暑いです。下界ではクーラー無しでは過ごせないはずですが、夕方になると高原の心地よい涼風が寒く感じられるほどなのです。この地では高原の何ともいえない心地よい自然の風を味わっていただくためにクーラーは置いていません。その代わり、テラスには遮光カーテンを取り付けましたので西日をいくらかは緩和できるようになりました。午後6時を過ぎて夕日が山の端に沈む頃になると、この山里でしか味わえない宵の饗宴が始まります。せせらぎの音とホトトギスの鳴き声がバックに引いていき、次第に一斉に鳴き出すヒグラシの鳴き声に辺り一面は包まれます。その日の終わりでしかないのに人生を儚い気分に浸らせる切ないヒグラシの大合唱となり長い夏の一日の宵が暮れていきます。
 25年7月15日

 古天神  井崎 


posted by 風のテラス 古天神 at 12:42 | Comment(0) | 風のテラス便り
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