2013年02月20日

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宿の露天風呂の横に蕗のとう 
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霜柱

 この小国に来てから冬の寒さを実感として身に染みています。昨年も雪の降る零下4度の中を散歩していましたがそんなに寒かった覚えがないのです。むしろ初めての真冬の寒さを楽しんでいた節もあります。佐賀では体験できないような気温零下の日々や霜柱の道、一面の雪景色に新鮮な感激を覚えていました。しかし、小国の冬は長いのです。9月の終わり頃には朝晩の気温は下がりはじめます。地元の人が言っていました、小国には夏はほとんど無いよと。その時はまさかそんなはずは無かろうとたかをくくっていましたが、二年目の冬でその言葉を納得させられました。宿の本館に薪ストーブを入れましたがそのストーブの前から離れられないような日々が続いているのです。気温は低い日が続いていますが、暦は確実に進んでいます。旧暦の季節の始まりとなる立春が過ぎ、雪や氷が溶けて雨となり水となる雨水も過ぎました。啓蟄ももうすぐです。春への暦の歩みを聞いただけでも何となく待ち遠しい季節となりますが、まだ小国は真冬の真っ只中の零度前後の気温が続きます。

 雪や氷が溶け出す季節はもう暫く先になりますが、「雨水」という響きを聞いたり字面を見ただけでも何となく冬の心が溶け出すような、言葉の持つ豊かさや季節の到来を予感させる節気の配列に感心します。気温はまだ冬のままなのですが確かに暦の通りに季節は進んでいます。まだ春の訪れは先だろうと期待はしていなかったのですが、宿の敷地に緑のふくらみを発見したのです。霜柱の立つ地面を割って蕗のとうが顔を出していました。辺りを探すともう既にいくつかのふくらみがありました。宿からの景色はまだ冬枯れのままですが、春の訪れは静かに人知れず地面の中で進んでいたのです。「雨水」という独特の言葉の響きに少し元気をもらい、固い地面を割って出た蕗のとうに思わず喜びの笑いが漏れ出ました。陽光溢れる春の日を待つ気持ちがそうさせるのかも知れませんが、冬は嫌いではない季節なのです。零下に下がり寒い日が続くのですが冬にしか見られない景色は魅力でもあるのです。だから、冬が嫌いでもないのに春を待つ心境はどこから来るのでしょうか。夏を待つとか秋を待つとかの心境はあまり聞きませんが、春だけは待ち遠しいとはやはり、溢れる緑と陽光の暖かさを心のどこかでは欲してるのかも知れません。

 冬のどんより曇った日や冬の雨の日は確かに気持ちは重くなります。しかし、私たちの日々の生活は晴れの日ばかりではないのです。むしろ曇ったような日が続くのが日常なのではないでしょうか。心が晴れたり自由気ままに奔放に過ごせる日などほとんど無いのが実状です。仕事や人間関係が思い通りに行かなかったり、思いも寄らない事態が起こったり、体のどこかを病んだり、少しの言葉に傷ついたりと日々苦難の連続なのが現実の生活なのです。雨の日に泊まりに来て下さったお客様に、あいにくの雨でと言葉を掛けましたら、雨も気になりません、雨の日こそ世間が落ち着き雨足の音の味わいも聞けてとおっしゃっていただきました。苦手とする雨も人によっては苦にならない方もおられるのです。寒い冬こそ雪景色の露天の温泉を楽しみたいという方もおられます。寒い冬の楽しみを見つけられたり、雨の日を気にならなかったりと多様な生き方を送られている方々の人生は深いような気がします。天気は人の力では如何ともしがたいように、日々の暮らしの中でも如何ともしようがないことも多々あります。政治や社会の不条理に対する抗いの声は上げ続けなければなりませんが、普通の人の暮らしの中での心の晴れない曇ったような日の過ごし方のヒントが、お客様の言葉の中にあったような気がします。

 「雨水」とは春に近づいた暦の季節です。しかし、それは雪や氷が溶けて雨や水になったことでした。暖かくなったことを喜んだ表現なのです。雨となり水となることが春を待つ喜びの表現とは、雨さえも水さえも冬の終わりには待ち遠しい春を象徴するものだったのです。雨や水のそこにも昔日の人は喜びを味わえる、今よりももっと厳しい冬の寒さがあった事を24節気の暦日は教えてくれていたのでした。


この文は小国の中野さんが編集・発行している同人誌「湧山」に投稿しました。今後も時々投稿させてもらう予定です。

25年2月20日

古天神 井崎秀樹






posted by 風のテラス 古天神 at 11:33 | Comment(0) | 風のテラス便り

2013年02月02日

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宿の近くの雑木林
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散歩道からの夕陽

宿の近くにはクヌギやコナラの雑木林が至る所に見られます。小国ですのでもちろん杉や檜の山がほとんどですが、牧草地の草原と所々の雑木林、また、集落の近くには棚田の様な水田も点在し、そのコントラストが小国の里山の風景を豊にしているようです。葉を落とした雑木林は冬そのものです。この冬の時期だけにしか見られない、雑木の間から空を覗かせながらの整然とした配列の眺めは、その一画に冬の風情を溜め込んだ空間を作り出しています。その他大勢のような代名詞で使われる雑木とひとくくりで呼べない、冬の景色の主役の座を雑木林は務めています。夏になるとクヌギの林も葉が生い茂るだけでなく、山全体が緑に包まれます。そのころは、草も猛烈に繁茂しているので、雑木林に目が留まる事はほとんどありません。春や夏の季節が樹木にとっては本来の姿かも知れませんが、葉を落としたクヌギ林にこそ冬ならではの趣があり、そこに雪が降り積もると心穏やかではおられないくらいの絵画の景色となります。

 桜は一本で他を圧倒したような存在感があります。確かに桜の花が満開となる頃の桜の美しさには他の樹木は及びません。しかし、桜の花の咲いてない、葉桜も終わっての桜は平凡な樹木でしかありません。1年の内のたったの1週間で散る所に人間の生き方の美学に通じるものがあり好まれるのですが、それに比べクヌギやコナラ等は、それ1本では桜のようには注目もされません。ひとまとめに雑木と呼ばれてしまい、その他大勢扱いとなります。しかしながら、クヌギやコナラが葉を落とし集団で整然と並んでいる雑木林は、冬の景色の風情を際だたせています。私たちは胸のどこかでは桜の様な樹木の存在を目指しているところがあります。存在が目立つし、注目も集まりますので当然ですが、その様な人生を送る事が出来る人はほんの一部でしかありません。私を含めて大半の人はその他大勢の、名も残すことなく一生を終える雑木のような人生なのです。大々的に知られなくても普通の人は、暮らしの範囲の中で互いを認め合える人や必要とされる存在であれば生きていけるのです。

 花の美しさが桜の魅力のすべてです。材としての利用価値はチップや高級な建具としては使われていますが、クヌギの方が優れています。椎茸の原木としては無くてはならないものですし、宿の薪ストーブの燃料として部屋だけでなく体の芯までクヌギの炎は暖めます。そしてクヌギはカブト虫やクワガタの昆虫も樹液を出して集めます。桜のような華のある樹木ではないですけれども、実用的には大いに活躍しているのがクヌギ等の雑木なのです。雑草という草の名は無いと、どの草にも名前がありますよと、産山の野草園で教えられました。確かに私には雑草にしか見えない草々も草の名前を知らないだけで、個々の草には名前が付いているのでした。花を付けて観賞用として飾られたり、薬として有用な植物以外はひとまとめとに邪魔な植物として雑草と片づけられます。山野草は平地で見るような華々しい育ちをしていませんが、どこかひっそりと可憐な咲き方をしていて女将も私も好きな植物の一つです。野草園のオーナは、歩きながらどの草であろうが手に取られて名前を呼ばれたのには驚きました。普段なら足で踏みつけても何とも思わない雑草の前で足を下ろすのをためらわれたのを覚えています。園のオーナーは、売れる植物だけを大事にされるのではなく、ほとんど人々が関心を示さない雑草と呼ばれる草々にも配慮をされている姿勢に敬意と感心を抱きました。

 時折山道を走っていますと山の奥から木を伐採する音が聞こえたり、山の下草刈りをされている方に出会います。山の仕事は数人でされる時もありますが、そのほとんどは一人でされているようです。山の奥に入ったら人は誰も居ません。むしろ獣のテリトリーの中なのです。集団の中で集団を相手に仕事をしてきた人間にとって、上司や同僚や後輩が居て摩擦や支援という人間同士のぶつかり合いの職場で仕事を経験した者からすれば、山の中で誰とも口を聞かずにする山の仕事がどういう心情で働くことか想像できません。職場での他の人間とのぶつかりも互いの人間としての存在をどこかで確かめていたのかも知れません。また、集団の職場では他人から認められることが励みになることもあります。しかし、山の中では働く姿を評価したりする人は誰も居ません。人とのぶつかりも無い代わりに相談をしたり成就を喜ぶ相手も居ない孤独の仕事なのです。植物や樹木や鳥や風と会話を交わさなくては、自然の息吹に敏感でなければ山の中での仕事は重労働の寂しい仕事になるはずです。山の仕事の評価は目の前の仕事にあるのではなく、杉山の下草を刈り枝を落とす作業をして成長した樹木の材の出来が決めるのかも知れません。
 
 この宿も余り人に知られず本当にひっそりと佇んでいます。おかげで、樹木や植物の季節毎の変化を感じることが出来、鳥たちの鳴き声には励まされます。宿に来て頂くお客様も人に知られていない喧噪さのない宿だからとよけいに喜んでいただけます。夏も山々の先に夕陽は沈んでいたはずですが、晩秋となり葉を落とした雑木林が山の眺めの中から抜きん出て来ました。夕陽を背に紅いシルエットを映し出す雑木林の佇まいには息を飲みました。そこには葉を落とした雑木林が必要なのです。桜の花見のように人を多く寄せ付ける樹木ではないのですが、1本の樹木に華があるわけではないのですが、整然と葉を落として並んでいる雑木林の姿は冬という季節の中でこそ、その存在の確かさを静かに放っています。雑木や雑草は誰からも注目されたり関心を集めたりする植物ではありませんが、季節によって時には人によって関心を引き立てます。人知れず働いたり、人知れず咲く花や樹木には惜しみない応援をしていくような宿としてあることを、冬の雑木林から教えられました。

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菊池まで薪を買いに行く途中の大観峰からの阿蘇山
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靄の中に浮かぶ阿蘇五岳
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同じ大観峰からの久住連山
 
この3日の朝はなんと、まず小国で携帯をしていて警察のお世話になりましたが、阿蘇山と久住連山を同時に眺められました。

25年2月2日
古天神 井崎

 
 

 





 
posted by 風のテラス 古天神 at 12:33 | Comment(0) | 風のテラス便り