2011年03月30日

 どう書いていいのか 何を書けばいいのか 今の気持ちを表現すべき言葉を持ち合わせていません ただおろおろと宙を見つめつつ過ごすばかりです。元気を出さねばならないのは私たちではなく、被災され方々のはずなのに日に日に惨状の余りの大きさを目にしていくと、私たちが元気でいることが申し訳ないような気持ちにさいなまされます。

 被災された方々、地域が日常の生活を取り戻すのは容易ではなく、この先の見通しさえついていない現状では、どんな言葉も気休めにしかなりません。今必要なのは安易な励ましの言葉ではなく、一個の暖かいおむすびであり、一杯のみそ汁のはずです。それさえ出来ない自分は自責の念に駆られます。言葉を失うしかありません。しかしながら、避難所では食料を始め、あらゆる物が不足しています。住む家どころか、すべてを失ってしまわれた方に何が出来るのか、いずれ支援物資は届いても、大切なかけがえのない思い出のものは取り返せません。それ以上に、家族を喪われた方の哀しみを埋める言葉はとうてい見つかりません。絶望の淵に立たされている人々に向けて、何も出来ない自分の無力さを、もどかしく悔やむしかない自分を恥じ入るばかりです。自分を責めて免罪にしている訳ではありません。被災された方々の哀しみと絶望に、何らかの光明が射し込むのをひたすら祈るしかない自分を情けなく思うばかりなのです。

 今年ほど桜の花が似合わない季節はありません。ことに寒かった冬が終わり、やっと陽光射し込む春がそこまで来ていました。桜の花も蕾を膨らませ、今を盛りに花開き世の中を明るく開く先駆けを務めるはずでした。その華やかな桜の花は華やか故に、今の日本にはそぐいません。明るい花を見れば見るほどに、花の隙間の彼方には哀しみの空しか見えて来ません。

 寒い被災地のことを思うと、この春は気温が上がる春の季節はやってきても、桜の花はまだ咲いて欲しくありませんでした。桜の花よりも、希望の光明のともしびが灯ることが先なのです。だから、花を愛でる気には今はなれません。花を見ると元気になれると現地の方がおっしゃるのなら分かります、しかし、被災者の哀しみに共感できず、無責任に元気を出さないことが悪いようにおっしゃる方とは一緒になれません。ものが足りてもいず、哀しみの傷が癒えてもいない方に元気を出せと言うのは無神経すぎます。元気な言葉で励ますのではなく、被災者が元気になれる何かの提示が必要なのです。悲観的なことを書き過ぎていることは承知しています。ただ、うわべの言葉で励ますことの方がもっと罪深いことも承知しているのです。被災地の方々に春の兆しさえ見えない現状では、花に浮かれることよりも、継続的な物心両面の支援を優先すべきでしょう。

 大学のサークルの先輩から東北に住む先輩の安否のメールが届きました。釜石に住む大学の先輩は危機一髪で津波にさらわれるところだったそうです。テレビで見ていた画面が一気に身近に迫りました。危うく難を逃れられたとのことでご無事だった事を喜びました。何らかの支援をサークルでもする動きがありましたが、個人の配送はかえって物流を混乱させるので公的な支援のほうで当分はやってくれとのことでした。

  宿のほうも、設計の北里さんによると建築資材で手に入らないものが出てきたそうです。震災地に回すのを優先されているようらしいとのことです。この先どうなるか分かりませんが、まずは震災地の復興に回すのは当然のことですので、完成が遅れるのは仕方ありません。オープンについては今後の進み具合を待ちたいと思います。


 福島の原発は予断を許さない闘いが続いております。私たちの立つ地球に安全なところは無かったのです。安全と思いたがったのは分かりますが、地球は日々活動していたのです。このことは、地球のどこにいても危うさを隣り合わせに生きていくしかないと言うことです。儚さの出所はここにあったのです。退廃は人間の所為に待つところが多いのですが、儚さは人間のはかり知らないところを背景にしていたのでした。

 しかしながら、人は懸命に人のために闘っています。原発にも、救援にも、避難所にも、物資の運送にも、医療でも、行政でも子供も、ボランティアもそれらを支える家族を始め、あらゆる人々が人のために闘っています。もちろん被災された方々がもっとも過酷な闘いを強いられています。人は人のためにともに闘うことで、儚い地球を堅牢な地殻へと築いていくのかも知れません。人はやはり強いのです。そこにやはり希望の灯はあるのです。

 九州の地において私たちに出来ることは、今現在の支援と同時に、今後数年はかかる復興に、なにがしかの側面からの支援でもあります。まず、日本の経済の底上げをはかる必要があります。産業面はもちろんのこと農業・漁業・観光等あらゆる分野での疲弊が予想されます。暫くは慶事ごとの自粛は当然としても、なるだけ早く以前の生活に戻していくことも大事なことです。私たちが、生活を控えすぎるとそのことが被災地の方々の生活の向上にはつながりませんし、ひいては日本の景気にも影響を及ぼしていくはずです。不況という波の襲来を被災地から守るためにも、私たちが活発な経済活動をすることも遠回りではありますが課せられた責務ではないでしょうか。

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  23年3月29日

 
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2011年03月16日

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           佐賀市役所1階ロビー

 前回に続いて地震のことを書こうとは、それも我が国の悲惨な状況を書かねばならない天の配剤の酷さを恨みます。まずはお亡くなりになった方々に謹んで哀悼の意を捧げますとともに、多くの行方不明の方が一刻も早く助け出されることを祈り、被災された方々へお悔やみ申し上げます。また、被災地において救援活動されている皆さま本当にご苦労様です。

 収まるどころか被害の状況が深刻化するにつれて、いたたまれない気持ちは哀しみに代わるばかりです。そうはいっても、今現在この時に苦しんでいる方々が多くおられる中で、離れた所から被害の状況を見ただけで嘆き悲しんでも何の力にもなれません。何かをやらねば、何かの力にならなくてはという気持ちを、具体的に行動に表さなくては所詮無責任な傍観者の態度にしかすぎません。もしそうであったら被災者にとってはよけい酷い仕打ちになります。何か少しでも助けに、力になりたい気持ちは、ほとんどの日本国民が共有しているようです。こういうときに他人事のように振る舞っている人は幸いなことにいないようです。大半の国民が、被災地の人々の苦しみや悲しみに寄り添い、心を一つにしていることが何よりの励ましになるはずです。このことが出来れば何はさておいてもやらなくてはならない、地震の被害に対する支援の輪は広がるはずです。

 海外から日本の震災に対する、被災地の人々の規律ある行動や助け合い、また全国からの支援の広がりを報道では賞賛しているようです。私たちは自国の人だけでなく、苦しんでいる人に対して人として手をさしのべる事は倫理観としても心情としても当然のことなのに、それを賞賛されることに、気恥ずかしさを覚えます。確かに略奪が横行したり無秩序な行動をする人はほとんど見かけません。こういう悲惨なときにはどういう行動をするかは教えられなくても、どう行動するか、どう振る舞うかは自然と育っていた日本の風土、被災地の人々の行動は誇りに思える事です。被災地の人々が互いに助け合って必死に生きようとしている姿は頭が下がるばかりです。どうか、救援の手が届くまで支援の物資が届くまで元気でおられることを祈らずにはおられません。

 今回の地震は残念ながら日本の半分が被害を受けそうにまで広がっています。発生から五日経ってもまだ余震は続いています。安全といわれた原発までも甚大な被害を受け放射能汚染が広がる最悪の事態になりつつあります。原発を進めた人の責任を責める議論は後回しにしてでも、今は被災者の救援を最優先に、政治家のリーダーシップを国民の生命・安全を付託された者として発揮して欲しいものです。日本という国の危機を迎えている今こそ、政治家も経済界も自治体も国民もともにこの未曾有の困難に対処していく必要があります。政治家は被害を最小限にとどめる使命を果たしていく決意が必要です。国民は支援に対する適切な指示を待っていますし、誰もが協力する用意と行動に応じる備えを持っているはずです。一回物資を届ければ義務を果たしたとか、自己満足的な思いで義援金を届けたとか、想像をはるかに越えた今回の大地震の被災者を前にして誰もが思っていないずです。いずれ街は時間がかかったとしても復興していくでしょう。しかし、亡くなられた方々はどれだけ時間が経っても残念ながら帰って来られません。この深い悲しみはいつまでも消えることなく遺族の方の胸に残る事を私たちは忘れてはならないはずです。そのためには、被災の方々、被災地が復興を遂げるまで一過性の支援ではない支援の輪を広げていく必要があります。

 やっと次男は希望の大学の合格を得ることが出来ました。1年間の忍耐と努力が実り喜んでおります。指導していただいた塾の先生や健康で受験勉強に励めたことに感謝しております。持っている力を自分の力で引き出させるという塾の過酷なまでの厳しい指導には、現在の学校教育にはない教育の本質を見た思いがします。せっかくの合格でしたが、喜びの気持ちに代えて、被災者に対するささやかな義援金と支援物資を佐賀市役所まで届けてお見舞いとしました。

 小国には行ってまいりましたが、宿のことをゆっくり考える気にはなりませんでした。夜の星は美しく澄んで輝いていました。夜の星が美しく輝けば輝くほどに世の無常、儚さ酷さを覚えずにはおられませんでした。前回も書いたように、儚さの先の希望を信じて生きるためにも、被災者への支援の輪の広がりを、暖かい応援の輪を広げる活動をしていくことを強く思いました。夜の闇の向こうに辛く哀しい被災者の方が、真冬のような寒む空の中で耐えられていることを思うと心穏やかでおられるはずがありません。すべてをなくして打ちひしがれておられる被災者の方々の希望の灯をともすことが、これからの私たちに課せられた大きな務めではないでしょうか。

 哀しみの感傷に浸るのはたやすいことです、しかし被災者の人たちには何の助けにもなりません。今は、感傷や同情ではなく求められているのは、具体的な支援のあり方のはずです。私たちは第三者ではなく国民の誰もが当事者としての自覚を認識する事が大事なはずです。この国において間近であったはずのあらゆる春の訪れは無惨にもうち砕かれてしまいました。古天神の窓から見える向こうの山の景色にも、情緒的な春の気配はいっさい消え去り、目に映るのは哀しげな樹木に、枯れ草が力無くうなだれる、荒涼とした冬のままの景色でした。


        23年3月16日

 







posted by 風のテラス 古天神 at 16:53 | Comment(0) | 風のテラス便り

2011年03月02日

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          花梨の花の蕾

この冬は本当に寒い冬でした。ここ九州でさえ最高気温が5度以下の日も続き、北国の生活の皆さまの過酷さを思い知らされました。皆さんはこの冬をどのような思いで過ごされたでしょうか。余りの寒さに室内で閉じこもり、または朝の寒さに起きるのも辛い毎日だったのではないでしょうか。そんな気候の中、寒い外での仕事の人には、ご苦労様と胸の中で唱えずにはいられませんでした。やっと3月の弥生となり日射しにも暖かさが感じられると気を許し始めたところ、また寒波が戻り、まさに三寒四温の季節となりました。これまでは緩やかに春が近づきつつ、春の足音が一歩一歩と季節が巡る感じでしたが、今年は気温の変化が鋭角に変わっていくのが気がかりです。季節が角張って緩やかさを失い、おおらかさとゆとりを失った、まさに人々の有り様を反映したような季節の変わり目を、少し気にかかりつつ春の初めを迎えています。

 中東ではたちまちのうちに抑圧された民衆のうねりに国の形が変わっていっています。独裁が続いていても、長く続くとその国の態勢に無自覚になっていた世界の秩序の認識に、警鐘を鳴らされているような気がします。またニュージーランドではいきなり地震の惨状に見舞われ、いまだ被災者の身元も分からないことに深く心を痛めます。特に安否不明の多くの若者が
19歳であることがむごさを引き立たせています。高校を出て、夢の実現を目指して語学研修の為の勉学の最中に、地震に襲われることは無念でならないはずであり、被災のがれきの下で右足の切断を告げられた奥田さんの思いは、想像を絶するものがあります。

 そのような厳しい世界の現状の中で、国内では政治家たちの国民を愚弄したような、ふがいなさには呆れるばかりです。国民の為とは口実で、自分たちの党利党略でしか動いていないのが、国民の誰もが気づいている事に、気づかない政治家たちの見識の低さには情けない限りです。もっと、格調の高い振る舞い行動、議論をやってくれれば、仕事や生活の労苦、困難に歯を食いしばって耐えている国民も救いがあるのに、これでは国民が政治家を見放すときが来ることを覚悟して欲しいものです。

 春はそこまで来ています。冬が寒ければ寒いほど春を迎える喜びが深いとは、北国の事と思っていたら、ここ九州でも今年は春を待ち望む気持ちがひときわ高いものがあります。春の到来を皆さまは何でお感じになりますか。気温のゆるみは肌で感じます。日差しが長くなっていることも春の証です。街ゆく女性のファッションにもパステルの色彩が多くなりました。私たちが春を待つように植物も春を待ち望んでいるようです。庭の木々は蕾を膨らませています。新緑の蕾であり、花のつぼみでもあります。社会人の蕾である高校生も卒業の季節を迎えました。長い冬の寒さを物言わず耐えてきた庭の木々の蕾を見ると元気をもらえます。何故なら、これから始まる様々な荒波に、今出て行こうと必死に頑張って葉や花を開こうとする蕾に、樹木の生命のエネルギーが蓄えられている姿を見るからです。寒さに耐えた蕾は春が来て花や葉を咲かせます。季節が間違いなく巡ることを予感して蕾は膨らみます。

 しかしながら、NZランドでは蕾の開く夢を絶たれつつある多くの人ががれきの下にあります。残念でなりません。19歳はまさに人生の蕾です。送り出した家族の悲嘆は言葉に尽くせません。しかしながら、NZランドで若者が夢に向かう姿が人生の蕾の姿とすれば、そのことは私たちが学ばなくてはならないことであり、若者達の意思を継いでいくことではないでしょうか。どう継いでいくかは、それぞれ私たちの課題と言えます。

  春はそこまで来ていますが、春の訪れが誰の上にも必ず来るとは言い切れないのがこの世の定めであり、儚さでもあります。人生の酷さ・儚さは誰の上にも宿していることだけは哀しいかな公平です。庭の木々の蕾も鳥のくちばしでかみくだかれたものもあります、明日の見えない儚さは人間も植物も同じです。ただ、この冬の寒さも遠からず去ってゆきます。また、儚さ酷さの先にも、必ず希望の光はまた灯る事を信じて生きていけるのが、人間の強さでもあります。

 暫く古天神の様子をみていません。多分冬の季節のままに違いありません。しかしながら、その寒い風の中でも蕗のとうは芽を出して膨らみ始めているはずです。雪残る冬の土から顔を出す植物の力強さも私たちを元気づけてくれます。次男の受験との闘いも未だ続いております。1年間の努力に報いがあればと願うばかりで、春の訪れの遅さにもどかしさが募ります。蕗のとうが一面に出ている宿の山を想像しながら、古天神に晴れ晴れと行ける日を楽しみに待ち続けています。


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              桜の蕾      
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              サクランボの花の蕾
    
    23年3月2日



 







posted by 風のテラス 古天神 at 21:57 | Comment(0) | 風のテラス便り